2018年1月15日 - 80

メモ:内在的エネルギー(?)のリリースについて

例えばラクダの毛だの精子だのの貫入を受けて卵子が卵割を開始する、という出来事が、ある意味では卵子の内在的機構や内在的エネルギーのリリースだ、という事としたとして、それは単なる反応や反射のような出来事なのだろうか??

それは卵子単独で見れば反応や反射のような出来事かもしれない。しかし(この実験はカエルか何かの卵子を使っていた気がするので、当てはまるか良く分からないが、人の場合であれば通常は)精子が卵子に貫入するまでには、pHの障壁、白血球の攻撃、卵子の外壁の厚さ、等々によって、ほとんどの精子は貫入には至らない。

いってみれば、そこには卵子が単独であるのではなく、精子が卵子に至るまでの無数の生体の機構があり、その終点に卵子は位置する、というものではないだろうか、とも捉えられる。そうなると、卵子単独で(例えばラクダの毛で突っつかれたからといって)「刺激によって反応を起こす」といえるかどうかは分からなくなる。そこには、無数のシーケンスを突破した(精子であろうと思われる)刺激が入った時に、卵子は内在的機構や内在的エネルギーをリリースして卵割を開始する、という「一つ一つの判定は単純なものだとしても、総体としてみればシーケンシャルな(単なる反射や反応とはいいがたい)判断機構」が働いている、と捉えられるのかもしれない。

そうだとすると、卵子の反応は、ここでいう「シーケンシャルな判断」を信頼した結果起きたもの、といえるかもしれない。内在的エネルギーなるもののリリースは、シーケンスの連続への信頼、あるいはコンテクストへの信頼に依るところがある、といってもいい。そこでは「それだけの生体(的な防衛)機構を潜り抜けて来た刺激であれば(良い精子ではなかろうかと)信頼できるので受け入れる」という出来事が起きているのかもしれない※1。

※1そして、このシーケンスあるいはコンテクストへの信頼/不信というのは、システムが開く/閉ざす、という出来事において非常に重要なものかもしれない。あるいは「内在的エネルギーなるもののリリースが、総体としてみたシーケンシャルな判断への、総体的な信頼に依っている」という出来事があるとしたら、それもまた重要なことなのかもしれない。ところでそこでは「内在的エネルギー(の蓄積)」「内在的エネルギーの弁」「弁の開閉の判断機構」がひとつのユニットになっているのかもしれない。それだけではなく、さらに基底にそれらの動作を(総合的に)志向する何かがあるような気もするけどな(分かんないけど)(/ω\)イヤン

ところでこういった感じなら、ここではダックタイピングのような事が起きている。「もしもそれがアヒルのように歩き、アヒルのように鳴くのなら、それはアヒルである」という判断だ。民話のような例えでいうなら「火と竜をこえて女性を救いに来たのなら、それは勇者だ」のような話だ。あるいは「体内に入ってきた〇〇のタンパク構造をもったものがあるなら、それは免疫機構をリリースすべき対象だ」みたいな話だ。ダックタイピング的判断と、シーケンシャルな判断というのは、おそらく多少なりとも合致する(もしかしたらかなり合致するかもしれない)。そこでは「振る舞いによってそれが何か(判断する)」という推測的機構、あるいは予期的機構が働いている※2。

※2:例えば言語もまた(おそらく本質的には)振る舞いに過ぎないのではないかとも感じる。それはある意味では、社会的相互的規約に則った、そしてまたその規約に則る事によって示したいシーケンスに対して(ある程度)収束的限定的な示唆を行える、鳴き声や目印の羅列なのではないだろうか。

ところでまた、こういったシーケンシャルな判断というのもまた騙され得る。精子だと思ったものがラクダの毛で、卵割してみたら遺伝子セットが足りませんでした、ってのはひでえ話だ(;・∀・)いえばそこには、数層の防衛機構を経てもなお、相手の正体が、つまりこういういい方をするなら、(数層の審級を経て開示される)相手の最下層あるいは核にあるものが判別できなかった、という事があるのかもしれない。あるいはそれはどれだけの防衛手段を講じてもなお、突発的な事故のように起こるのかもしれない。

もしそういう事であれば、その対象の(振る舞いから)それの奥行きにある志向性/欲動/行動ロジックのようなものを推測する事、その推測制度を高める事は、こういったやり方におけるコミュニケーションの成功(?)のための手法として重要なことかもしれない(ごく単純にいえば、自らの深層を開示する相手や状況が危険なものだったら、多くの場合はまずいだろうから)。また、あるシーケンスからつながる次のシーケンスが、いえばこういったコミュニケーションが無際限さに開かれているとするのなら、その意味でも(無際限さに迷わないように)奥行きへの推測への一定以上の確度というのは求められるのかもしれない。


ところである種の攻撃性というのは本当にそもそも攻撃的なのだろうか。それは自己展開の要請と、社会的なあるいは自己を取り巻く関係性との要請とのコンフリクトによる負荷(自己展開の未達や押さえ込み)から起きる、自己展開側からの幾分激しい反応、という面はあるのだろうか。そしてまた、これも様々な場合によるが、自己を取り巻く関係性の系が、(淘汰圧を生じさせる程度には)密であるということは、ある面での豊かさに繋がる事だったりするのだろうか。


もち喩えで、生体が袋のようなものだとして、それは外界と内容物をゆるやかに交換したり、外界の変化を内容物にゆるやかに伝えることで、内容物が一気に変化しないようにする袋だ、というように捉える※3。

※3:その内容物は、例えば一定範囲の温度に保たれようとするもの、みたいな話し方も出来るかもしれない。この喩えでいうなら、生きものは、自らの状態をみながら、自らを開け閉めしようとする袋、といえるのかもしれない。ある種の無際限さや不確かさのうちにおかれた袋っつうか。

するとそこには、調整機構として、袋を開け閉めする紐のようなものもあるのだろうか。あるとして、意識と呼ばれるようなもの/出来事もその「紐」に含まれるのだろうか(「袋」と「紐」というのは便宜的なもので、実際は「袋自身が袋自身を開け閉めする」ってののうちに幾分紐のようなとこがある、というだけかもだが)。またそこには、袋、内容物、紐以外の主要なものがあるのだろうか(上手くいえないが、俺はある気がする)。


例えば一定以下の気温や一定以上の気温が続くなどして植物が開花した、なんてのは、外界のシーケンスあるいは外界からのシグナルを受け続けた結果、その植物の「ある袋」が開いて、その植物が「蓄積(?)」していた内在的なものがリリースされた、ということになるのだろうか。


生きものとは、ただ流れるだけならただ流れてしまう無数のエネルギー系の流れを、幾分堰き止め、開閉や遅延を行って幾分形を変えることで、ただ流れてしまうだけとは違うもの/姿/状態にしているもの達なのだろうか。

例えば感情(や心)とは、そのような生きもの/袋が、外界や自身や欲求やそれらの関係性に抱く評価や判断や負荷の集合体の状態(をベース/素材/材料の一部としたような何か)なのだろうか。

あるいは生きものの生命性とは、無際限さのうちで、出来るだけオートポイエーシス的であろうとする試みの核にある/試みを形作る志向性なのだろうか(その試みは常に幾分アロポイエーシス的になる気もするが)※4。

※4:そしてもしかしたら、生命にとって重要なのは、オートポイエーシス的であることではなく、その核にある志向性が、しっかりとリリースされる事なのかもしれない(あるいは別の何者かの志向性のリリースを守ったり、より大きな志向性のリリースをキープしたり)。そうでなければ、生命がただ単なる自己創出的でしかないもの、になってしまう。しかし自己よりも大事なもののために動くという時、そこにあるのはオートポイエーシス的な試みだけではないのではないか、と俺は感じる。


「A」という表現(振る舞い、目印、鳴き声、その他なんでものシグナルやシーケンス)が「Aなるもの」を十全に表している/示唆している、という保証は無い(無いかどうかも俺には分からない)。これが保証されているのは「ゲーム」の世界だと俺は思う。その保証の不確かさを見失っては、生きた世界あるいは現実への認識を違えてしまうのではないか、というようにも感じる。具体的には、より生命論的な世界観から、より機械論的な世界観になっていく気がする。その良し悪しがどうこうではなくて。

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