2018年5月31日 - 80

メモ:ものについて、言語について

ものは名乗らない。ものは、例えば目の前の壁でも机でも草でも何でもいいんだが、それは「私は壁です」とか「私は草です」とかは名乗らない。それは何でもない。それがなり得るもの、起こし得るもののうち、どのようなものにでもなり得るし、どのようなことでも起こし得る。ガラスは割れるかもしれないし溶けるかもしれないし、その破片は遊び道具になるかもしれないし刃物になるかもしれないし鏡になるかもしれない、云々。ものは多義的なんだろうが(あるいは多義的で連想的なんだろうが※1)、ものは「私は多義的です」「私は多義的なものです」とすら名乗らない。そのような、非名称的で、多義的で、連想的(あるいはネットワーク的)な世界が、ものの世界だ※2※3。その奥行きは非名称的なやり方/姿で示される。それは「(名称的な方法では)語られ」ないが、比喩的にいえばそれは「ものが語る」やり方で語られる。そこに言語はいらない。あるいは言語はあってもなくても構わない。なぜなら言語も、ある認識の構造や連環を離れてしまえば、「音声と文字によって形成された『もの』」となっていくからだ(「認識の構造や連環」とのつながりの残滓は、少なくともある時点/地点まで感じられるのだろうが)。

※1:海辺のカフカに「多義的な夢のように」みたいな表現あったな。ちな俺、村上春樹そこまで好きか分からんけど、海辺のカフカはすごく好き(/ω\=)

※2:宗教的な公理的世界観については知らんが、科学や数理系の公理については、このようなネットワークの海のあるポイントを「基準という事にして」、そこから「論理的に見えるゲーム」を展開しているもののように思われる。ただ俺が思うのは、そのポイントは、ネットワークの海の漂流物の一角でしかなく、その海はもっともっと深く広がりがあり、その「一時的に決められた基準点」を支えているポイントやネットワーク(認識的な面から語れば、世界の認識における事物のポイントなりネットワークなり)が無数にあるだろう、という事だ。そのポイントやネットワークの深度や広がりを見失って、基準とされた「事物の一角」がものごとの基底だという事にしてしまうと、世界に対する多くの見方※3を失ってしまうように俺には思える。

※3:いわゆる生命や生物の働きも、このようなレベル※4で行われているのではないかと俺は想像する。世界を「語られ得る名称たち(とされた、基準点とされたものの上の構成物たち)」のうちに閉ざしてしまうのは、そういった働きから、いえば一つには自分達自身から、遠ざかってしまう事のようにも感じられる。

※4:例えばそういったネットワークの海/多義的で連想的なものや出来事たちの海、における流れ、動き、姿、固さ、柔らかさの様(さま)など。生物や生命は、そういった様のうちに、自らの欲望、渇望、欲求、要請などから、そういったものにまつわる何かを一方的に、あるいは相互に見出し、関わったり関わらなかったり、関わろうとしたリしなかったりするのかもしれない。

ものと言葉/事象と名称は1対1の関係ではない(少なくともそういった場合があるように思える)。草という言葉は、あの草もこの草もそこら辺の無数の草も示す。俺の名称も、俺が多少なりとも変わっていき続けるなら、その時その時で異なる無数のものを示している。これらの話からは、ものと言葉は多対1の関係のように感じられる。ところでまた、俺はあだ名みたいなものがあるし、人によって呼び方が異なったりする。草だって多分そうだろう。こういった話からは、ものと言葉は多対多の関係のように感じられる。ところでものと言葉は、その関係が破断することもあり得る。あるやり方で呼ばれていたものがそう呼ばれなくなること、認識のなかで忘れられていく事、等々。おそらくは、ものと、言葉の音声と、言葉の文字のカタチと、それらにまつわる無数の想起を結び付けているのは俺らの認識で、それは、つまり俺らの認識なるものがそれらを結びつけている姿は、「『もの』のレイヤーに対して、『言葉』のレイヤーが上位にあり、カテゴライズなどが出来る」といったような姿ではなく、それらのゴタマゼの混淆なのではないのか※5。

※5:あるいはもしかしたら、認識自体もその混淆の一部なのかもしれない。これはカオティックな捉え方かもしれないし、情報の生態系的な事物の捉え方からすればまあそうかもね、って捉え方かもしれない。

世界に茶碗だの草だの石だのなんてものはない。そんなものはどこにもない。あると言えるとすれば、茶碗だの草だの石だのといった、音声、文字、いえば身振りによって、指し示す事を試みられている無数のものたちがあるだけだ。茶碗と呼ばれるものと、身振りとは、同じ世界のうちにある。どちらがレイヤーが上でどちらが下とかはない。どちらがレイヤーの上か下かも、ある意味では身振りの側の出来事で、茶碗と呼ばれるものが、その身振りの世界に所属している保証はおそらくどこにもない。と同時に、茶碗だの草だの石だのと呼ばれるものは、身振りと同様になんらかのメッセージを持ち得る。それは身振りにおける/身振りとしての音声や文字を伴わない、姿かたちだけの、あるいは「いわゆる意味」を持たない音や光の反射や匂いや手触りだけの、いえば暗黙の、もの/メッセージ/情報かもしれない。しかし暗黙のメッセージは、暗黙であるということ自体からも意味を帯び得る。それは身振りが暗黙性をある程度失い自らは明証的だと振る舞う事で、なんらかの意味を帯び得るのと同じように。身振りも、ものも、暗黙のメッセージも、明証的なメッセージも、ひとしく、世界のうちに意味を(あるいは意味の無さ、空虚、ただの広がり、等々を)帯び得る。俺らはおそらくは、そのようなメッセージの世界に住まっている※6。

※6:ある意味では俺が踏み込みたいのは、このようなメッセージがどのように織り合わさり、断ち切られ、ほぐれたりもつれたりしながら、何をどのように形成しているのか、そこで俺らはどのようなもので何をしているのか、という話だ。

ところで俺らは、おそらく常にものの一部しか分からない。俺が石を触ってひとまず分かる出来事は、俺の触覚や圧覚や温度感覚の限界のようなものをおそらく越えられない。だから、なのか分からないが、その限界を越えてそれが何かを知るために/関わるために/対応するために「(与えられた『限界があるであろう』一次情報とおぼしきところから)推測をする」というのは、俺にはなんだか自然なことのように思える。さんざこれ書いてるが、コミュニケーションて、そういう「一次情報とおぼしきところの先に推測/予感されるもの」への投げかけ/投企、というところはあるんじゃないだろうか??ある意味では、俺らは推測の先、予感の先の幻かもしれないものを読み取ろうとしたり、幻かもしれないものとの働きかけのうちに住まっているんじゃないだろうか??同様の意味で、極端なものいいをすれば、俺らは(諸々のメッセージのうちに想起/予期/推測/予感される、諸々のものとのコミュニケーションや非コミュニケーションという※8)幻かもしれないもののうちに住まっているんじゃないだろうか??少なくとも(?)クレアトゥーラにおける「クレアトゥーラとしての、保証の無さのようなもの」は雑に言えばそのように顕われたりしていないのだろうか??※7

※7:それが直截に語れるようなものなのかは俺にはよく分からないが。ただ少なくとも注意深さを失うと一発で語り損なうようには思う。もうちょいちゃんというと「保証が無い」とか「保証の無さ」と言い切ってしまったらおそらくダメだって話だ。それが「無い」と確定的に分かるなら、そこには「無い」と分かるだけの、何らかの保証があるのだから。それは「保証があるのか無いのか分からないおぼつかなさ」という方がおそらくまだ近い。あるいは、こんなに単純かは分からないが、確定的な保証が出せるか分からないおぼつかなさのうちにおいて※10、極限的状況/限界的状況が最も保証のようなものとして機能し得る、というのはあるかもしれない。ある意味では、結婚の誓いなんかでの「死が二人を分かつまで」というのは、死という極限状況を持ち出す事で保証のようなものとして機能するような面がある言動かもしれない。

※8:ある意味ではコミュニケーションは、コミュニケーションの森に分け入っていくものであったり、もしかしたらごくわずかずつ住まっていくもののようにも感じる。時には激烈なものもあるが、往々にしてわずかずつしか、徐々にしか進まないものなのかもしれない。ところでまた、ここで書いた「生命が、例えば流れの中の渦や淀みだとするなら、それは『ただ流れ去っていく、のではないこと』をすることで、姿かたちになり、その中で生命なりの豊かさや貧しさを展開しようとしているようにも思える」というようなイメージがわずかなりとも合っているとするなら、俺らは、あるいは生命は、そこで、コミュニケーションをしたりしなかったりしながら、何をしようとしているのだろうか??いずれは流れ去ってしまうものなのに??あるいは幻でしかないかもしれないものなのに??あるいは保証があるともないともつかないものなのに??しかしそこでやっている事(例えば「何らかの複雑さの度合い※9を上げながら、何かの状態になろうとしている事、またそれが崩れていってしまう事」)がただの無意味ではない事なら、それは何なのだろうか、どういった事なのだろうか。

※9:ごく単純な話(?)ではフラクタル次元のような??あるいは実情に多少なりとも近そうなものとして、生態系的な情報の複雑さの度合い(例えばこんな??)など??ちなみにあるパラメータばかりが高くなるor低くなる、というのと、全体の複雑さが向上する、というのはまた違う気がする。前者はシステムに破壊的な作用をもたらす事もあるだろうが、後者はある種の豊かさにもつながる気がする(しかし複雑になっていく事によって、システム的な強度が失われる事はあるのかもしれない。また妥当性を置き去りにしてただ複雑になるのは、単なるシステム的装飾過多になっていくようにも思える。ところでここでいうところの「置き去りにしちゃいけない妥当性」って結構重要なんじゃないかな、システムの、ある意味での芯のようなものというか)。

※10:例えば根源的かもしれない不安、慈悲/慈愛、執着なども、そういったおぼつかなさのうちにある不安定さや、おぼつかなさをもたらす諸々の混淆から来る/生じるのだろうか※11。あるいは、そういったことがそうだとしたら、それは、俺らがどこかしらでそのような領域に連なっていることの徴/淡い証左なのだろうか。そしてそういった領域というのは例えば、声はどこから来るのか、というような問いへのざっくりとした答えだったりするのだろうか。

※11:そして俺が思うに、そのおぼつかなさを(例えば公理主義的な、データ主義的な、カテゴリ主義的な認識スタイルなどで)殺してはならない。おそらくそのおぼつかなさが、俺らの地面への立ち方/姿のありかたなのだ(それを「立っている」といっていいのか俺には分からないが)。

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