2018年7月14日 - 80

ジェスチャーについて その2

使ってる言葉の説明いうか補足的なアレっす。なんとなくだけど「コード=言葉的な意味」「ジェスチャー=色んなものの動き」「メッセージ=色んなものの動きが示す雰囲気とかだけど特に言葉的な意味になってないやつ」みたいな感じで(*`・ω・)ゞ


ここには/そこには/全てのところには、何らかのメッセージ群をもたらすような、無数のジェスチャーの織物が(シーケンシャルに)ある。俺らはそこに、メッセージを読み取ったり読み取らなかったりする。そこにコードは無い。この風景が、この物体が、ここで提示されている何かが、何であるのか/コード体系におけるどういった意味を持つのか、という事は示されていない。そこにはコード体系に置き換えるべくもない、無数のメッセージ群がある。しかし俺らは時にそのメッセージ群を、コード体系に置き換える。それは言語的作業であったり、あるいは詩的作業であるのかもしれない。そこに初めから、コード体系に置き換えられるような何か、があるのではない。そこにはコード足るものは何もなく、コード化のための無数の苦慮によって、それは時にコードの様に言い表される。。。

翻ってみれば、コードが示すのは(といっても真にコードであるものなどないのだろうが)、コードの様に言い表された、コードになる手前のメッセージ群なのだ。そこにはコードが表そうと苦慮しているメッセージを推測/推察する努力がある。もちろん全てのメッセージがコードに置き換えられるわけでも置き換わるわけでもないだろう。何の事はない風景や光景や出来事は、コードに置き換えられないだろう。あまりにも無数の要素がちりばめられた風景や光景や出来事も、少なくとも単純で手短なコードには置き換えられないだろう。コードに置き換えられる努力を払われずに見過ごされるものも、コードに置き換えられないだろう。しかしそれらは、コードに置き換えられても、コードに置き換えられなくても、メッセージを汲み取り得る形で顕われている。そこでは無数のものによる無数の、コード的な意味を欠いたジェスチャーが行われている。それでもそのジェスチャーは、俺らにとってみればメッセージとしての意味を放っている(俺らがそれを汲み取り得る程度に)。俺らはそういった世界に踏み込んでいる。。。

全てのことにはコード的な意味はおそらくは無い。そこにはメッセージがあり、それは言い表せない事も往々にしてある。「暖色」と「寒色」というコードしか持たない者が、虹のあの色を言い表すことは出来ないか、少なくとも多くの苦慮を伴うだろう。しかしそこには七色の虹が、あるいはもっと無数の色の虹がある。今こうして目の前で起きている事を表す言葉が僅かなら、俺らはそれを言い表せないだろう。今日行ったあの景色のあの姿をただただ言い表す言葉を、少なくとも俺は持たない。しかしそれでも、今日行ったあの場所は俺にとってはあの場所なりの雰囲気があり、奥行きがあり、いえばメッセージがあるものだ。それは、あの場所にあった無数の出来事で構成されている。

おそらくは同様に、誰かや何かの動き、例えば手を伸ばす事、こちら側に近づいてくること、遠ざかっていくこと、声を大きくあるいはひそやかに出す事、目を閉じている事や開けている事、等々、などなどは、ジェスチャーであって、そこにはコード的な意味は無い。しかしそれでも、俺らはそこに、何らかのメッセージを見出したり、見出そうとしたリ、あるいは見出そうとしなかったり、見失ったりしながら、そういった誰かや何かとやり取りを行おうとする。そこにはコードの保証はない。彼や彼女やそれが何を表そうとしたリ伝えようとしているのか、それは本当には分からない。そこには言葉に置き換えられる手前の、言葉に置き換えるなら少なくとも幾分かの苦慮を伴うようなメッセージ群がある。しかし俺らは、おそらくは、そういったメッセージ群を汲み取ったり、渡そうとしたりしながら、物事を進行させようとしていく。おそらくはそういった事がコミュニケーションと呼ばれるものであり、そしておそらくはそういった事が本質的であって、コードに置き換えられた後の話は、ある意味では、ある種の省力化を経てしまった後の非-本質的な話でしかない。そこに、コードに置き換えられる前にどういった事があったのか/あろうとしていたのか、という推察がないのならば、そこにはジェスチャーもメッセージも欠いた、空っぽのコードの残骸しかない(ここには残骸しかない、というメッセージならそこにはあるのだろうが)。

おそらく、メッセージ的な意味は無限に/無際限に開かれている。俺らは意味の可能性のうちに物事の姿を読み取ろうとし、あるいは物事の姿のうちに意味の可能性を読み取ろうとし、その深奥の様に触れようとし、何がしかを取り交わそうとしていく。

おそらくダックタイピングというのはジェスチャーの受け取り方として本質的なのだ。そこにある光を映すものは眼ではなくただの穴かもしれない。しかしそれが様々な角度から、眼のように振る舞い続けるのならば、その振る舞いの限りにおいて、可能性のうちではそれは穴ではなく眼なのだ。あるいはまた、扉の後ろの闇は、ただ暗いだけではなく、底知れないどこかにつながっているかもしれないのだ。振る舞いの限りにおいて、誰もそれがただ暗いだけに過ぎない、とは断言出来ない。世界は、自分がこれまで世界の振る舞いから想像していた姿とは違う振る舞いを始めるかもしれないし、今まで想像していたものは、実は違うものかもしれないのだ。ただそういった中で、俺らは、例えばシーケンスが示すコンテクストから、例えば強固な信念から、例えば明晰さから来る推測から、例えば愚かさから、世界の姿はこうではなかろうか、と想像し、その想像が妥当であろうという可能性に向けて、時に、あるいは常に自らを投企していく。


この部分はここからの再掲。

感覚系による感知が可能になるには、感覚系が成立する必要があった、とするなら、感覚系が成立する手前の段階がそこにはあってもおかしくない。そこには感知は存在しないが、その(感知が存在しない)姿を経ないなら感覚系は存在しない。感覚系が出来る手前の感知出来ない世界、がそこにはある。感知出来ない世界から、感知出来る世界は徐々に姿を現すのではないのだろうか。いきなり無から現れるのではなく。少なくとも順序があるとすれば、無から感知出来ない世界が現れ、感知出来ない世界から感知出来る世界が現れるのではないのだろうか。そして感知出来ない世界から、感知出来る世界が徐々に現れるとき、そこは名称のない、動きが動くだけの、感覚が感じるだけの世界ではないのだろうか(例えば煌めきが眩しいとか、冷たさが冷たいとか、そういうの。椅子だの机だのと言った名称の無い世界。非人称的な世界。動詞的や形容詞的な世界)。無については(およそ想像でしかないので)俺はここでどうこう言えないけど、感知不可能性から感知可能性が徐々に姿を現すとき、世界は生命にとってそういったものではないのだろうか。こんな論法/話は実態に即してない想像だけのものかもだけれど。

そしてまた、そういった世界において生命が感じる(名称的ではない出来事としての)誕生、飢え、成長、生殖/増殖、減少、死、喪失、消失、覚醒、沈み込み、流動、固化、などの形式やあり方が、俺らのものの感じ方の根源ではないのだろうか。

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