2018年7月15日 - 80

ジェスチャーについて その3

光景や風景や出来事や振る舞い、今の俺の言い方でいえばジェスチャー、の示唆する意味は、無数に折り重なる/織り重なる。ある光景の示唆は、そこにある事物、光、陰影、風の動き、匂い、暖かさや冷たさ、湿り気、奥行き、空間的に開かれているか閉じているか(あるいはまたその光景に出会うまでにどういったシーケンスが起きていたか、当事者がどのようなコンテクストにいるのか/いたのか)等々の無数の示唆/情報のベクトルが合成され、形成されている。そこには示唆や情報のベクトルや力学のようなものがおそらくある。

こういった話は、例えばデザインや小説の領分でもあるのかもしれない。少なくともデザイナは、ずっとこういったものと関わってきたのだろうと俺は想像する。つまり素材が示す情報/示唆を組み合せる事で、なんらかの示したい示唆/コンセプシャルな示唆(それは明示的な方法も暗示的な方法も含め)を、作品の全体が示すような配慮や苦慮のもとに制作を行う、といったような事。あるいは小説における光景描写を伴った心情の描写など。しかし例えばオシャレのために、今日の自分の服装を、見た目の面から考慮する人もこういった事をやっているのだと俺は思う。そこには素材の示唆を組み合わせたり合成したり散逸させたりすることで、全体として自らの格好や立ち居振る舞いにどのような情報/示唆を伴わせたいのか、という配慮があるように思える。

ところでアフォーダンスなんかは、こういった、(いえば環世界における)ある生命/生物にとっての(コードを伴わない、あるいはコードを伴ったものを含めての)意味/メッセージの形成や産出のプロセスへの切り口として語られるものであるように思う。ただ俺がちょっと見た感じでは、そのプロセスがどのように進展しているのか、なぜ意味の多義性がそこにあり得るのか、という話はあまりなく、〇〇は××の意味を持つ、□□は▲▲の意味を持つ、のような例の列挙に留まっている印象もあった。しかしアフォーダンスが問題にすべきはおそらくは(繰り返しになるが)、環世界的な世界観において何らかの生命/生物に関わる意味がどのようなプロセスで生成しているかであったり、またそのプロセスにおいて意味の多義性がなぜ生じるのか、といった事ではないか、と俺は思う。そしてまたおそらくはその多義性は、1つには、俺らの認識の昏さ(例えば、感知系の発生前の世界は、感知系には感知出来ないという昏さ。なぜならそこでは感知系は構成前なので/解体されているので)に依っている。俺らは根拠が、いえば自らの根が昏いまま、自らの世界に、ここに広がる世界に、あるいは無数に生い茂る関係性の束に足を踏み入れていく。。。

とか偉そうな事書いてるけど、俺がアバウト過ぎてアフォーダンス読めてないだけだったらさーせん(/ω\=)

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