2018年7月14日 - 80

メモ:ベイトソンのアホウドリについて

またSさんとのやり取りとか自分のメモから抜粋っす(/ω\)

ちなベイトソンのアホウドリってのは天使のおそれに出て来る、水夫の呪いが解ける話っすね。


ベイトソンのアホウドリの呪いの話ですが、1つの語り方としては、

「意識が、自覚的に/自覚的な、意識として振る舞おうとする限り、意識は、自らを構築している土台に縛り付けられている。なぜならその土台が解体しないよう握り続ける(構造を維持するための力を加え続ける)事が、意識が自らを、自覚的に/自覚的な、意識として振る舞うために重要だからだ」

というのがあるかもです。水夫が「思わず」ウミヘビだかの姿を祝福した事で、水夫の意識は「自らの土台を手放して(構造維持のための力を手放して)」振る舞いはじめ、その結果から、(その「力」を掛け続けていた事によって、何らかの格好で水夫が縛られ繋がれていた)アホウドリの呪いも解けた、みたいな話なのかもです。逆にいえば「意識的に呪いを解こうとしている間」は「力を手放していない」から呪いは解けなかったというか。

例によって結局いつもの話なんですが、アホウドリの「意識の土台」に絡めていうと、土台が成立する前/土台が解体されている時、に何が起きていたのか、何が起きているのか、というところが俺は大事な気がします。

俺は意識なるものが(ほんとに「意識」なんてひとまとまりのものがあるのかはよく分からないですが)、意識として成立する以前に起きていた出来事があるだろうと想像します。それは「意識による力」の入らない状態、曖昧模糊とした状態、フロイト的な原初性を示す状態、みたいなものだ、という話になるかもしれないです。

そういった想像をする時に俺が思うのは「『意識に力の入った語り方』の土台は、意識が意識としては到達できない領域にある」のではないか、という事です。いつものアレですが「その領域に至る時には意識の土台は解体されているであろうから、そこに至るときに、意識は意識の姿形を取れるものではない」のではないか、ってやつです。

ナウシカっぽい語り方をすれば「意識は闇の中から浮上した、闇の広がりを土台に持つ光だ」という語り方になるかもです。それは「意識の出自は闇の広がりであり、その広がりを光で以って明瞭に語る事はおそらくは出来ない」という事でもあると思います。自らの根拠を明瞭な(意識に力の入った時の/意識が解体されていない時の)方法だけでは語れない、というか。

そして例によって俺がきらいな数学だの何だのの話にこの話をもっていくと、ああいったものが示す「明瞭なルール」「明瞭な公理」「明瞭な法則」といったものは、本来的に、生命の振る舞いを出来るだけ正しく語るのに極めて不向きというか、語るべくもないような語り方なのではないか、という風に自分は捉えます。自分が思うのは、生命の振る舞いを出来るだけ正しく語れるのは、ある意味では、(話者もまた生命である限り)自らの語りの根拠を(生命の振る舞いが不明瞭であるのと同じ様に)不明瞭であると開示や告知するような語りではないか、という事だったりします。そういった不明瞭さの開示や告知はけして愚かな事ではなく、むしろ、自らの出自/根に正しく立脚しながら語ろうとするというある種の明晰さ、あるいは誠実さを示す語りではないのか、と俺には思えます。

ちなみにもち明瞭な語りを否定するものでは全然ないっす。比喩的にいうなら、光が届くところまでは明るさのうちで語り、光が届かなくなってきたら薄明/暮れのうちで語り、光が届かなくなったら闇のうちで語り、語る事も出来なくなれば語りを失う、という態度が、正しく明晰な態度なのではないのか、というのが俺の想像です。しかし光が十全に届くとこなんてどこにもなくて、どこかしらに(例えば光の根元に、光の背後に)影や闇や昏さがあるのが「意識という光」の姿ではないかと思いますが(/ω\*)

また、このような「明瞭さ」と「明晰さ」の捉え方からすると、今の科学などは「『科学ゲーム』のための明瞭と思える語り」と「本質的に明晰と思える語り」を取り違えてるとこがあるのではないかなー、という気もします。例えば、計量可能性や、明瞭な根拠の取り決めをすべてに持ち込もうとする事は、物事を一見分かりやすくするように思えるかもしれないが、しかしそれはけして明晰という訳ではなく、むしろそういった事を持ち込む事で「語りが失敗する」ような領域に安易にそれを持ち込む事は「本質的な意味での明瞭さ(=明晰さ)」を見えにくくする事につながる、という事などはあるかもです。

ちなみにまた、日常生活では「自らの根の昏さ」を想像した上での語りは避けられているように思えます。これは昏い部分を避けようとしているというより、そういう事まで想像して語るとやたらめったら回りくどい話し方になるから、じゃないかなーって気がします。それは日常的に話すという習慣における価値判断ですが、しかしその価値判断を「昏さを出来るだけ語りに含めないと語りがおかしくなる場合」にまで持ち込むと、語りがおかしな迷い道に入るのではないかな、という気がします(*`・ω・)ゞ


おそらく、明示的に思われる言語も本当はジェスチャーなのではないかと思います。例えば「点とは部分のないものである」というのはユークリッドによる点の定義ですが、ここには、「点」という言葉で【点なるもの】を指し示そうとする努力があり、また「部分のないもの」という事ばで【部分のないものなるもの】を指し示そうとする努力があると思います。

いえばここには「ユークリッドが、誰かに対して、【点なるもの】の【定義なるもの】を指し示そうとしているであろう努力」が見て取れるだけだと思うのです。そこから先を解釈するのは、ある意味では俺らの想像力であって、その意味でユークリッドは、受け取り手の想像力に委ねざるを得ない身振りを、しかし出来る限り直截に伝わると思われる方法で示した、という事ではないか、と俺は思うのです。それに対して「じゃあその『出来る限り直截に伝わる身振りの体系』こそが明晰な科学なんだ」という意見があるとしたら、俺は「科学が、明晰な意識のようなものを基底としている限り、けして曖昧さから逃れることは出来ないのではないのか??なぜならば明晰な意識の基底はおそらく、昏く曖昧な(クレアトゥーラとプレローマが混淆とする)領域だからだ」と問いたいです。

例えばWASPなんて言葉がありますが、一般的な自然科学は、ある意味ではWASPのものだと俺は思います。なぜかというと、それが「アタマが明晰でしっかり考えられる能力と時間がある(ある意味では恵まれた)者」しか理解できないものだからです。酔っぱらいや、寝ている人間や、動物や、気絶しかかっている病人や、忙しすぎて考える時間がない人間や、死人は、一般的な自然科学を理解できないと思うのです。これは、酔っ払いや気絶や死人を出して馬鹿げた話を言いたいのでないっす。俺が思うのは、俺らはまさに、意識が明るみに出るその手前の状態では、酔っ払いや気絶している人間や死にかかっている人間と似ているのではないか、という事です。ほいでまた、明るみに出る前の意識の基底は、まさにそのような不明瞭なあり様にこそ根差しているのではないか、その意味で、明晰な意識が根差しているのはそのような不明瞭/非明瞭なあり様ではないのか、という事っす(*`・ω・)ゞ

なんかこうイメージですが、俺らは非明瞭な世界から立ち上がり、相手や何者かの想像力に向けてジェスチャーを繰り返し行い(あるいは自らも無数のジェスチャーのうちに何らかのメッセージを解読しようととし)、その繰り返しのなかで「何か(重要なものが)が導通した」と思える相手と関わり、生きて、死んでいくようにも思えるっす(*`・ω・)ゞ


感覚系による感知が可能になるには、感覚系が成立する必要があった、とするなら、感覚系が成立する手前の段階がそこにはあってもおかしくない。そこには感知は存在しないが、その(感知が存在しない)姿を経ないなら感覚系は存在しない。感覚系が出来る手前の感知出来ない世界、がそこにはある。感知出来ない世界から、感知出来る世界は徐々に姿を現すのではないのだろうか。いきなり無から現れるのではなく。少なくとも順序があるとすれば、無から感知出来ない世界が現れ、感知出来ない世界から感知出来る世界が現れるのではないのだろうか。そして感知出来ない世界から、感知出来る世界が徐々に現れるとき、そこは名称のない、動きが動くだけの、感覚が感じるだけの世界ではないのだろうか(例えば煌めきが眩しいとか、冷たさが冷たいとか、そういうの。椅子だの机だのと言った名称の無い世界。非人称的な世界。動詞的や形容詞的な世界)。無については(およそ想像でしかないので)俺はここでどうこう言えないけど、感知不可能性から感知可能性が徐々に姿を現すとき、世界は生命にとってそういったものではないのだろうか。こんな論法/話は実態に即してない想像だけのものかもだけれど。

そしてまた、そういった世界において生命が感じる(名称的ではない出来事としての)誕生、飢え、成長、生殖/増殖、減少、死、喪失、消失、覚醒、沈み込み、流動、固化、などの形式やあり方が、俺らのものの感じ方の根源ではないのだろうか。

俺らは常に飢えに付きまとわれている。水を含めた栄養の摂取などによって常に自らを形作っている。それらの(何らかのストラグルをせざるを得ない)ストレスに晒されている(こういった話から、物理的な意味環境だけではなく生理的な意味環境も含めたアフォーダンスの話には繋がりそうだ)。俺らは少なくとも、自らの消失や、他の何かの喪失も起こり得るような、いえば本源的な不安の生起にもどこかしらで付きまとわれた、流動する世界のうちにある。そういった場所/世界で、俺らは他の(生命のような)何かにも遭遇する。流動的な世界のうちでの無数のイベントや、イベントとの関係性にに意味を見出し、例えばアクションとレスポンス(あるいはレスポンスへの期待)をしようとしていく。。。

ところでレスポンスを期待した対象が、期待どおりの振る舞いをするとは限らない。そういった世界で俺らは予期をする。予期の世界に踏み込んでいく。予期の世界が、ある意味ではコミュニケーションの(広がりの)世界であり、またおそらくは無数の可能性が提示(アフォード)された世界だ。俺らは実態的な世界だけでなく、無数の可能性の世界にも住んでいる。もしかしたら実態的な世界なんてものはなく、極めて強靭に提示された可能性としての世界がそれなのではないか、という気もするが。。。


解放と破壊は異なるが、それは最終的には、プレローマのうちに帰還する/崩壊する/姿形を失う、という意味では同じなのかもしれない。プレローマには何も生存圧がない、あるいは姿形を失えば何も生存圧はない。。。クレアトゥーラ的なもの(組織的なもの??)は必然的に姿形の圧のうちにある。。。


言葉もまたジェスチャーなのだ。なぜならそれは、対象を指し示すのではなく、対象を指し示そうとする(という無数の曖昧さや不確かさや言及し得なさを含む)努力をするものだからだ。


プレローマ、ジェスチャー、非コード的メッセージ、コード


以下の事とかはあれこれ考えてみようと思っています(*`・ω・)ゞ

・意識のようなものは、それ自体(意識)によっては捉え難い昏い領域に根差しているであろうこと。

・生命の多くは、その原初的な姿である卵や種が、受精からの発生過程に入った瞬間から、栄養分が欠乏する(飢え)可能性と共に生存する事になること。

・おそらく意識のようなものよりも、飢え(というよりも、危機や満足や安心と関連するような、栄養分/エネルギーの流動プロセス)が起きる領域の方がより原初的であり、その意味で基底的であること。

・(生命にとっての)エネルギーの流動プロセスが、ある意味では意識にとって、自身の根差している領域/昏い領域であろうこと。

・そういった、意識にとっては捉え難い領域を暗に含むようなカタチでのやり取り/コミュニケーションに、俺らは嫌も応もなく参画し、活動し、生まれたり死んだりするであろうこと。花も嵐もそこにはあること。

メモ / 日々


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です