2018年7月17日 - 80

ジェスチャーについて その4

俺的適当予想だが、例えば、おそらくアレルギー反応における化学物質の振る舞いなどもジェスチャー的な振る舞いなのだ(この辺合ってなかったらさーせん)。そこにあるのは、おそらくコード体系的な意味ではなく、ジェスチャーとメッセージの体系的な意味なのではないかと俺は想像する。身体の側は、入り込んできたものが何物かは知らない。ただその振る舞いから、あるいはその振る舞いのシーケンスから、あるいはその振る舞いや振る舞いのシーケンスが示唆するメッセージから、それがどういったものかを推測する。そこにはダックタイピング的な振る舞いがある。あるいは勘違いの束がある。身体は勘違いの束のうちで動作し、出来ればそれを原因として動作して欲しくない物質(アレルゲン)の侵入に対して、免疫機構を動作させる。

こういった勘違いが、あるいはアブダクションが、あるいは草の三段論法的な動きが、あるいは連想的な動きが、そこにはある。それは雑にいえば、アレルゲンと、本来反応したかった物質との取り違え/勘違いのようなものだ。しかしその取り違えが出来るからこそ、ある意味では身体は未知の状況や物質に(その状況や物質をアブダクティブに類型化する事で)対応出来たり、またそれによって悲喜劇を生じさせたりするのだ(例えば栄養物に似た毒の摂取による身体の破壊や変形)。俺らはシステミックな勘違いが起きる場にいるし、あるいは俺ら自体がシステミックな勘違いをしながら自らというトポロジカルな領域を何度も何度も(もしかしたら毎度幾分失敗や勘違いしながら)再構成しようとする系そのものなのかもしれない。そういったシステミックな勘違いは身体のようなものを作り上げたり成立させたりするのかもしれないし、あるいは行き過ぎて(いわゆる異常が蓄積することで)身体などの系自体を破壊したりするのかもしれない。


「感覚系/感知系が形成される前に、何らかの状態があったであろうから、(その状態を基として、その上?に)感覚系/感知系は形成され得た」とするなら、感覚系/感知系は必然的に感覚/感知出来ない領域が存在する。なぜならその基の状態に至っていた時(あるいは未生の状態)/その基の状態に至った時(あるいは死のような状態)に、感覚系/感知系は解体され切っていて、感覚も感知もそこでは起き得ないからだ。これはある言い方をすれば、俺らが死ぬ時に、自らの状態を認識出来なくなるまで、感覚/感知出来なくなる程度まで死に尽くしたのなら、そこから先の領域のあり方/世界のあり方がどういったものであるかは、俺らには分からないだろう、という事だ。

言ってみれば、俺らの認識は、俺らの認識系/感覚系/感知系が成立した後に(それが徐々に成立するものなのか、システム的なある地点を境に急激に成立するものなのかは俺は知らないが)成立するものであって、その意味では、俺らの認識は「俺らの認識が成立する以前」という、俺らの認識にとって不明瞭さ/昏さを伴う領域を根として成立するものなのではないか、と俺は想像する。

そういった想像に立つとき、少なくとも「自らの根が不明瞭な広がり/昏い広がりに繋がっている」という意味で、俺らの認識は「常に確定的な情報足り得ない」ように俺は思う。これは明晰さに対する誠実さの破棄に思われるかもしれないが、むしろ「俺らの認識は常に確定的な情報足り得ないのではないか」というスタンスに立つことは、ある面では自らの認識が存在するかもしれない姿/成立しているかもしれない姿に対して、誠実であるのかもしれないと俺は思う。逆にそういったところに立たない方が、ある面では見せかけの明晰さに阿り、ある種の誠実さを破棄した態度なのかもしれないと俺は思う。俺らの認識が解体する時、あるいは俺らの生が解体する時、おそらく俺らは、いかなる計量器もない世界に還るのだ。おそらく俺らはそこから来たし、常にそこに根はあるのだ。

そういったスタンスからすると、例えば自然科学などは、無数に乱立し得る認識論の1つの様式というよりも、文化的態度の1つに近いのかもしれないと思う。つまり(俺の言い方だが)「常に確定的な情報足り得ない」かもしれないような俺らの認識のなかで、何がしかのものをとりあえず「確定的だ」として、それを確証/足掛かりとして世界を理解しようとする事を試みる、という様式という話だ。あるいはこういう言い方をするならmortalで死に得て昏さを根に持つかもしれない者であろう俺らが、immortalで不壊で明るさしかない(おそらくは感覚/感知系のあり方としてはあり得ないような)何者かの視線を想像した上で、その視線から世界を理解しようとする事を試みる、という様式という話だ。

ところでまた、自然科学とは幾分別なのかもしれないが「何がしかのものが、とりあえず確定的だ」という格好でゲーム的に進められるものには数理や論理があると俺は思っている。数理なんかは公理に則ってそれを展開させる、という話だと思っているし、それはまた今の自然科学の一つの基になっていると俺は思っている。ここで疑問なのだが、この「公理のようなものを無判断に受け入れる」というのは、果たして明晰なのだろうか??例えばいきなり目の前の人物が「私が神だ」と言いだした、という事を受け入れるのと何が違うのだろうか??そしてまた、自然科学のようなものが、数理のようなものに帰せる体裁を取りながら世界の理解のようなものを進めようとしている限り、結局は数理のようなものにおいて初めに設定された公理のようなもの、例えばいきなり目の前の人物が「私が神だ」と言いだしたというような公理、に行きつくだけで、それ以外の何かを理解した事にはならないのではないだろうか??

話は飛ぶかもしれないが、そういった公理の妥当性についての話を煎じ詰めれば「ありがたいことに私の狂気は君たちの神が保障してくれるという訳だ。 よろしい。ならば私も問おう。 君らの神の正気はいったいどこの誰が保障してくれるのだね?」という話にしかならないのではないだろうか??しかし実態としての俺らの認識は、そのような格好ではなく、つまりどこかから公理が降ってきて、それを元にガチガチとロジカルに組立てていくようなものではなく、昏い根から生じてゆるやかに形作られていくものではないのだろうか??もしそういった風であるのならば、科学なるものを用いて俺らは(俺ら自身において生きる世界を)一体どのように理解出来た、という事になるのだろうか??あるいはまた公理のようなものを無判断に受け入れているという点で、科学のようなものは、ある種の明晰さを、あるいは自らの認識を基とした世界への理解を(自らの認識のmortal性を隠蔽するという点と、自らの柔らかで不明瞭な認識ではなく突如現れた神の名乗りのような明瞭なものを基とするという点、という少なくとも二つの点で)捨てているという事にはならないのだろうか??※4

※4:数理や論理はそういう「公理作ったから信じてねw」みたいなものではなく、幾つかの公理を組み合せて系を展開させてみて、その結果矛盾が生じるかどうかを判定する思考ゲーム、という風にも取れるという事は一応知っているつもり。なのでそれ単体でどーだこーだ、という事はある意味ではないのかもしれない。だけれども、それを自然科学などといった認識論の一種の基としてしまった場合に、その認識論には、やはり(その認識論に参入/参画するには公理的なものをとりあえず受け入れなければならないという)宗教じみた馬鹿馬鹿しさと、(その系をどう展開しようが結局元あった公理の展開系でしかないという)どこにも辿り着け無さが発生するように思う。そしてまたところで、いかなるゲームも、そのゲームが成立するには何がしかの認識論の関与がそこにはあるのかもしれない、とテキトーな想像をしてみる。

文化様式として科学なるものがあるとするなら俺はそれを否定するものではないが、ある面ではそういったimmortalな何かを想像した「明晰な」世界認識よりも、例えばだが「俺らは死あるいはプレローマに帰還し得るもので、生あるいはクレアトゥーラとはある種の幻※1にしか過ぎず、しかし俺らが体験する生のリアルとはある意味ではその幻そのものであり、その幻というリアルのうちにいる者にはプレローマこそが到達不可能な『幻』なのだ」といったようなところから語られるような不明瞭さを伴う世界認識の方が、生きた世界を認識するに当たっての一種のアクセシビリティを失っていないのではないだろうか??

※1:これもまた推測に過ぎないが、この辺りの話に紐付けていうなら、俺らの脳の中の幽霊がいたりホムンクルスがいるのではなく、俺らこそが脳の中の幽霊でありホムンクルス(というクレアトゥーラの幻)なのではないだろうか??その意味で、ホムンクルスの(マトリョーシカ的な)無限遡行などは「意識のようなものを基とした認識世界、というゲーム的な/理解可能な/おそらくは自らの根のあり方を見失った/動詞的なものの姿ではなく名詞的なものが基と(おそらくは勘違い)されてしまった※2、世界の捉え方」のなかでしか起きようもないのではないだろうか??

※2:あんまりこっち系の理解に行く気はないけど、例えば「花」というのは、ものの名前ではなく、出来事の一時的な状態の名前ではないの??とかは思う。あ、偏見だったらさーせんなんですが、こっち系の理解に行く気はあんまないのはこれが仏教ぽい雰囲気がするからっすね。仏教ってなんか、システムが自己を再構成し続けるって意味である程度姿が変わらない事とかもちょい無視して「世界は流動的だ」って(過度に)いうような印象があるのと、システムがその形成過程から必然的に持つ欲求/欲望を幾分否定してる感があって(「解脱」とか)、その辺の印象は俺は好みではないす。でも日本の墓地散歩とかは好きだけどな。


ところで(自分で書いておいてアレだけど)プレローマは本当に到達不能なのだろうか??いってみれば、プレローマとクレアトゥーラの区切りは明快であり、その区切りを越えては生命は現象世界に到達しえないものなのだろうか??この辺りの話には少なくとも、組織なるものに関しての見方と、情報なるものに関しての見方が出て来るのではないかと思う(他にもあれこれあるかもしれない)。

まず組織についてだが、ベイトソンが「組織的ではないものなどないのではないか」的な事を言ってた(と思う)が、プレローマが非-組織的なもので、つまりそこではクレアトゥーラ的な現象/生命的な現象はおよそ解体され、もはや何でもないところまで分解され死に尽くしている、というのは実際そうなんだろうか??例えば科学的な見方を持ち出すなら、岩石などは組織構造を示すし、土壌などは極めて複雑な系だし、あるいは分子なんかは組織構造といえるだろうし、例えば原子もそのうちに陽子や中性子や電子がありクルクル回っているという意味で組織構造といえるかもしれないし、陽子や電子もそのうちにクォークがあるとかなんとかで組織構造といえるかもしれない(この辺になると俺よく分からないの(/ω\))。もし素粒子的なアレがプレローマの最小単位だとするのなら、それが組み合わさって出来ているものは皆すべて組織的なものだ、という話になる。そうだとして、もし「クレアトゥーラ的なものとは組織的なものだ」とするなら、俺らは、俺らがいる世界とはずいぶんと遠いような極小世界にまで還元されなければ、真にプレローマ的なものにならないのかもしれない。もしそうだとすると、少なくとも身体が系として死に、分解され、例えば土に還るような段階では、俺らはまだ全然クレアトゥーラ的なものとして振る舞っているのかもしれない。言い換えれば、俺らが思う「生」が解体した段階というのは、十分にクレアトゥーラ的であり、その意味では俺らは一見プレローマ的な「生の解体した状態」と実はずいぶんと近しいところにいるのかもしれない。あるいはそういった話の別の言い方として、クレアトゥーラの断片はプレローマ(あるいは一見プレローマと思われるような状況)のうちに散在していて、その意味でクレアトゥーラとプレローマの区別はそれ程明確ではないのかもしれない。

ところで情報についてだけれども、これについては俺はまだよく分からない(他の事も分からないけどな。。。)けど、プレローマとクレアトゥーラの境目が「最小限の情報(組織)が生じているかいないか」だとすると、これはまた上に書いた組織的なもの云々と違う捉え方があるのかもしれない(ここでちょい書いたみたいに)。つまり「システミックな情報、的なものがそこに生じている、という最小限(?)の状況とはどのような状況なのか」という辺りに関連する話だ。でも良く分からないから今はパスしますごめんなさい、(自分で書いといて再びアレですが)もしかしたらこの見方じゃない見方をしなきゃいけないかも感があったりなかったり(/ω\)


意識なるものが、例えば手や足やあれやこれやを意識する意識であり、手が感じたり足が感じたりあれやこれやが感じた出来事の統覚だとするなら、意識が意識として統覚的に生じる手前で、手や足やあれやこれやの感覚はあるかもしれない。そういった、意識が意識として統覚的に生じる手前にあるものとしての身体状況、を含めて、俺らは(クレアトゥーラ的に)存在している、というところはあるのではないだろうか。そういった、意識が意識として統覚的に生じる手前にある、無数の系の判定(あるいは判断??)ともいえるもの※3が、例えば一つには、無意識や感情などと呼ばれるもの(の断片)だったりするのだろうか。

※3:例えばここで書いたような、感知不可能性から感知可能性が徐々に姿を現すような世界において生命が感じる(名称的ではない出来事としての)誕生、飢え、成長、生殖/増殖、減少、死、喪失、消失、覚醒、沈み込み、流動、固化、などの形式やあり方やその派生形、等々。あるいはまた、眼前で起きていることや体験していることが、自らの生存様式と深いところ/深いレイヤーで通底や類似や関与していると感じる事、等々。あるいは、死を含んだ生存様式の伝達(例えば幾分かはソマテイックであるだけでなく幾分かはジェネティックかもしれないような生存様式の伝達や開示や、生体の情報伝達方式の幾分限界的な試み)が成されている/試みられている/行われていると感じること、等々。

メモ / 日々


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