2019年1月2日 - 80

メモ:コミュニケーションについて

1.生命とは、熱のある淀みや流れの様なものなのではないか。

2.生命とは、自己自身に対して自己組織化的に振る舞う淀みや流れの様なものなのではないか。

3.生命にとっては、概念や理論ではなく、生命自身の感覚や感触が、その生命にとっての第一義的な情報なのではないか。

4.生命は、自己自身の感覚や感触よりも下層(感覚や感触の成立以前の層)の情報は、その生命自身の感覚や感触としては観測出来ないのではないか(少なくとも感覚や感触が成立する以前の状態に立ち返って、それを観測する事は出来ない様な気がする)。

5.生命において、命と生とは異なる様態なのではないのか。いえば原現象としての命がまずあり、それが無数の関係性の中で、その時その時の生の形を取っているのではないのか。

6.生命において、命と生とのうちには無数の葛藤があるのではないのか。原現象としての命のうちに現れる要請が、すべて生において叶えられる訳ではないなら、生はつねに命の不全な状態なのではないのか。

7.生に対する命の不全感と関わる何かが生命に対して訪れる時、そこにコミュニケーションなるものの条件が発生するのではないのか。


観測者には観測者自身は観測出来ない。ゆえに観測者は「なぜ観測者自身による観測が成立しているのか」を「観測という現象が起きているという事実」からしか理由付け出来ない。

そういった「観測という現象」が俺らの根底にあるのだと思う。そこから先へは俺らは行けないのだと思う。なぜならそこから先に行こうとする時、俺らは観測出来ているという事実の外部に対して向かう事になるだろうから。それは俺らが、観測者としての姿を失う事を意味するであろうから。

「観測という現象」が俺らの根底にあるのだと思う(重要なので何回でもいう)。俺らは、俺ら自身の感触や感覚といった、分類や科学などとは無関係に生じる出来事を、俺ら自身の基底としている。それを感覚の網の目の広がりというなら、理論や科学や概念はその「A.感覚の網の目」の上に広げられた網の目なのだと思う。そして「B.感覚の網の目の上に広げられた網の目」から「感覚の網の目」を理由付け的に語る事は出来ないのだと思う(語れるとしたら連想性や類似性によったやり方だろう)。なぜならAはBの下部にありBを支えている。BはAに支えられているけれども、本質的にはAを支えられはしない。少なくとも直線的なロジックで語るならこのような話になると思う(循環論法的というか)。もちろん実際は入り組んでいるかもしれない(ところどころではBがAを補強するなど)。AはBを単純に支えているのではなく、BはAの連想の広がりのうちにあるA’のようなものなのかもしれない。しかし雑に、直線的に語るなら、AがBを支えているのであって、BはAをどうこう出来ないのだと思う。ではAを支えているものは??それについては俺らは語れないのだと思う。それは俺らの意味の世界からはずれている。。。しかしおそらく、その「Aを支えているもの」「俺らの意味の世界からはずれている世界」が、俺らにとっての生命やコミュニケーションや世界の秘密への入口なのかもしれないという気もする。

俺らにとって、生命的なものよりも認識的なものが先立つ。認識活動を支えているのは確かに生命活動かもしれない。しかし俺らに対して現象が現れるのは、まずもって認識としてなのだと思う。その認識は生命的な認識活動なのかもしれない。しかしそれにしても、生命的なもののすべてではない。生命的なもののすべては俺らには姿を現せない。なぜなら俺らが観測者であり、かつ生命活動の一部である限り、そして観測者にとって観測者自身が観測不能である限り、俺らは自己の観測活動を支えるもの除く全生命しか観測できない。そして生命活動や観測活動がなぜ可能なのかを、知ることも出来ない。観測者は、観測という現象を通してしかすべてに出会う事が出来ない。

こういう風にゴチャゴチャ書いている話を、この本はちゃんと書いている様な印象がある。まだちゃんと読めてないけど。なんか個人的にはすげーいい本に見える本。そのうち読みます。

上に書いたような話から、例えば俺らの心なるものの「(いわゆる理系的アプローチから成る)科学的な完全解明」みたいなのは、未来永劫出来ないと思います。出来ない理由は上に書いたけど、まとめると2つ。あ、まず前提として「ここでいう科学とは、生きた感覚や感触を基礎として成立していく、認識(論)的な理論や概念の集合体」とします。1.その「完全解明」は論理の階層の矛盾を孕む。つまり「俺らの生きた認識において」科学を根拠づけする「感覚的観測という領域」を、科学によって根拠づけする事は出来ない※1。2.その「完全解明」は観測という現象が生起するさらに深淵の現象についての語りを含む語りになると思うが、その深淵/昏さは俺らの意味の世界からはずれているため語りようもない、ましてや(いわゆる科学的)明晰さからなど語るべくもない。という理由っす。ちなみにこうやって俺が語っている事も「科学とはより良い説明の出来る体系を模索する試行錯誤である」というなら、ある意味では科学だろーという事になるとは思う。俺はこれが科学とは思いたくはないが。

※1:1はロジックとしては弱い気もする。もし科学的な説明を「論理的な説明:下から支える説明」ではなく「連想的な説明:横から補強する説明」として受け入れられるなら「俺らの生きた認識における科学を根拠づけする領域」に対して、連想的な、そしてその結果として(生きた認識に対する)補強的な説明体系として科学的説明が機能する、という事はありそうだと思う。というか実際科学なんてのはそういうものなのかもしれない(少なくとも論理と連想のゴタマゼ、というところはあるのだろう※2)。2は妥当だと思う。

※2:そして俺が数学だの物理だのが嫌いなのは、認識の根拠を、ひとまずでもそちら側の論理系に譲り渡せ、という印象を受けたからだろう。出来事の根底には俺らの、あるいは俺自身の認識がある(と俺は思う)。そこから連想的に話が始まるなら俺はOKだ。しかしその根底を別のものに挿げ替えろ、と言われるなら、それはNOと言わざるを得ない。俺は自分自身で感じられる世界が好きだからね。特に挿げ替えるものが一見閉じて見える系※3だなんて真っ平ごめんだ。ああいったものは、そういう事を要請してくる様な印象があるから、俺はそこがイヤだったんだろう。あるいは、この言い方でいいのか分からないが、俺らが世界を経験する様式(底が開いている)のとは異なる様式(底が閉じている)からの語りは、俺らが世界を経験するそのやり方からの経験を、つまり俺らにとっての生きた世界のあり方を語れる、とは思えないところがあるというか。

※3:例えば数学は一見閉じて見える※4(しかし本当はその「閉鎖」は脆い閉鎖なのだろうが)。数学単品だけ取り出すのなら。しかしそれは閉じてはいないと俺は思っている。なぜなら数学はそれ単品では全く成立せず、それをやる人間とセットで成立するものだからだ。そして数学をやる人間の認識の根底が、昏さ/深淵/意味の世界からはずれたところに対して開かれているなら、それは数学&数学をやる人間ってのは開かれた系だ、という話にはなるんだろう。でも俺はそれでも、閉じて見える系に積極的に入っていくのはいい気分ではない。というか、自分自身で感じられる世界が失われてしまう感覚は、とてもイヤなものだ。

※4:ところで公理のようなものの根拠に納得出来たためしがない。それはずいぶんと、俺らの感覚や感性や気まぐれやいい加減さに基づいているのではないのか??もしそうなら(おそらくそうなのだが)、そこから導かれる論理展開も、感覚的で感性的で気まぐれ的でいい加減的だと俺は思う(というか公理だけでなく演算子も感覚的でいい加減なのではないのか??)。ルールはころころ変わるし、ルールを実行している最中でさえ変わる。それを意味付けするのが俺らなら、俺らが昏さに開かれている以上、それも昏さに開かれていて、おそらくずいぶんと確定的ではない。ところでまた公理も演算子も本質的にはいい加減で頼れないからこそ、幾分厳密風のそれが要請された、というのはあるのだろう。ところでしかし、その要請は物事の昏さや捉え難さから目を背けたやり方ではないのだろうか??俺らが感じる世界は本当は、現象の昏さ/意味の底/観測の底からの生成物ではないのか??そしてまただからこそ(つまり不確定さや不確実さを根底とした評価であるからこそ)、世界に対する俺らの評価は、感情的なものになるのではないのか??

メモ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です