2019年4月21日 - 80

雑感など、幾つかの事について

■考えをまとめてみた事について

この頃一度自分の考えをまとめてみた(そっちで書き物していたのでここには何も書かなかった)。どこかで晒せたら晒します。それでまとめてみて思うに、1つの俺の考えの核となるのは、

・自分はおそらく、自分の認識の根拠を明示できない。
・自分は自分の姿では、自分自身の「発生源」に辿り着けない。
・自分は「根拠」に十全に辿り着くことが出来ない姿で生きている。

といったもののようだ。これについて幾つか言いたい事はあるけど、長くなるので端折ると、

・自分が自分の根拠に辿り着くとき、自分は解体していて、もう自分の姿をしていないだろう。

という捉え方が軸になっていると思う。自分でいうけど、この考え方は良いものだ。なぜなら根拠に辿り着けないであろうという事は、不確証さも残り続けるけれど、可能性も残り続ける事のように思うからだ。ついでにいうなら俺は、

・明証性の光のない、解体と構成の手触りが、自分の根拠なのだ。
・それは体験だ。体験は文字ではない。体験は最終最後は、おそらく文字には出来ない(A)。
・Aは、なぜなら文字を欠いた体験を、文字であらわす事は出来ないからだ(B)。
・Bは、なぜなら文字を欠いた体験に真に至った時、そこでは文字は欠けているからだ。

というように思ったりするらしい。これは実際的に、おそらく妥当であるように思う。俺らは俺らの死に、文字や、文字的な方法によっては辿り着けないのだ。なぜならそこに至った時、文字的な方法を使う俺らは解体しているからだ。そこにはおそらく解体(と構成)の手触りしかないように思う。その手触りがおそらく、俺らの根拠なのだ。

■細胞について、破壊について、リビドーについて

この辺とか面白いよね。
http://www.seibutsushi.net/blog/2016/02/3767.html
https://www.gizmodo.jp/2019/01/single-cell-organisms-collapse-at-death.html

ところで俺は生物学への理解はだいぶ浅いのでめちゃめちゃな話なんだと思うけど、細胞は、古くは、そもそもすべて生殖的なのではないかと思った(いわゆる「生殖」的というよりも、原初的な意味で、増殖的/破壊的/勘違い的/交換的/戯れ的、というか)。この話が妥当かどうかは後で本かネットか見て確認します多分。。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A5%E5%90%88_(%E7%94%9F%E7%89%A9)

まあ俺が思ったのは、もし細胞が、古い時代は、接合による「配偶の核」的なものの交換によって生き永らえたり増殖していったりしていたのなら、原初的には、細胞にとってはそこで起きていたすべてのイベントが重要だったのではないか、という話。

言い換えれば、そこで起きていた事が、ある意味では「接合時の自己の変容、という破壊」「接合時の相手の変容、という破壊」による「新しい状態の生成」であるなら、他との接合、変容と破壊、新しいものの生成、などは、増殖/分裂のためにすべて重要なイベントだったのではないかという話っす。

もしそこで細胞に意識のようなものがあったなら、接合前の分離状態における孤独、相手への幻想や共感、変容への怖れ、新生への願望、などなどのないまぜの状態を感じたかもしれない。

あるいは、もし周囲が原初の生命のスープのような状態であったなら、細胞はむしろ、自らの死や破壊や変容はどうでもよく、その生命のスープのうちで増殖するたわむれを楽しんでいたのかもしれない。

。。。といった事を思いました。もしこういう話が多少は妥当なら、例えばオルギアなんかも、むしろ生の原初の、破壊と変容と新生の姿を再現しようとしたイベントだ、という風になるのかもしれない。個々の生と死を含んだ、全体としての生命のスープの再現というか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A2

ほいで、もしこのなんやかやの末の増殖が、欲望の方向性だとして、それをいわゆる(?)リビドーとするなら、リビドーのうちにはエロスもタナトスも内包されているのが自然であったり、あるいはリビドーからエロスやタナトスが分化していったとしても自然なんじゃないかと思いました。なぜなら細胞が、あるいは原初的な生命が、生命のスープのうちで増殖していく過程においては、タナトス的には変容と破壊、エロス的には新生、生の活動、接合などが行われたであろうから。

えー、だから、なんつうか、こういった想像が多少なりとも妥当なら、俺らはけっこう元々の細胞に近い願望や欲動から動いているのかもしれない、と思いました。まあでも死にたくなるというか解体したくなるのは個人的には分かる。多細胞生物でいるのって大変だしね。解体して原初的な姿に還れたら楽そうだよね。

ただまあ、楽ちんさよりも重要なものがあると思うので、俺はそっち行きたいですが。ところでその重要なものって、1つは社会性/関係性から端を発したものかもと思う。原初的(?)っぽい要請よりも、そういう関係性的なところ(?)からの感情を重視したりするところがあるからヒトは不思議ですよね(もしかしたら緊急度と重要度ってことかもだけどね)。それがいいとこなんだろうけどね(/ω\)

■意識について

意識は自らがなにしているかを定位しながら活動するメモリ空間みたいなものだ。そこでは自覚がある。自覚性と定位への志向性から、意識は曖昧ではいたがらない、曖昧でいるのが本来だとしても(困ったもんだ)。だから意識があるものは自動機械ではない、自覚/捉え直しのループがあるから。しかし意識は「それがある時にだけある」というものだ。それは状態であって、おそらく固定的な事物ではない。

■解体について

あるもの(例えばA)にとって底がない場所とはAの解体が起きる場所だ。そこではAはAとして底に辿り着くことはないのだから。そしてAが解体したとしても、ある意味での「底」なるものに辿り着くかどうかは、そこで起きる解体が、受容的解体か、破壊的解体かによるようにも思う。受容的解体が起きるなら、Aは姿を失っても「底」に至るのかもしれない。そしてまた、死は、受容的であるとか破壊的であるとかいえるものではなく、もっと深い可能性のうちへ投企的に解体されていくことかもしれないようにも思う。

■スマートアグリ的仕事について

なんかやっと同じ方向性を向いて関係者が動き始められたような。。。

ここまで俺めっちゃきつかったんですけど(´;ω;`)ウゥゥ

まとまり始めるのに2年かかったわ。。。ある意味ではそれ以上だけど。

こっからまた成果が出て来るのに2年とか掛かりそうでこわい。

まあでもそんなもんだろうし、頑張ってみよ。

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