2019年11月17日 - 80

公理や規約について

Wikiによると公理とは、

公理(こうり、英: axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(英語版) (axiomatic system) という。

というものだ。私としては、これはこれで良いのだ。なぜならこういった規約は「ある種の」公正さ、正確さ、厳密さを求める時に発生し得るものだからだ。それはスポーツや「ある種の議論」などの「ある種のゲーム」において発生し得るものと言ってもいい。これを仮に「規約に基づくゲーム」と言おう。

ところでしかし、私たちの日常あるいは生では、こういった規約は常に崩れ続けたり、滅んだり、生じたりする。例えば「あそこにバッグがある」という事は、そこからバッグが動いたり、私がバッグを感知出来なくなったり、私が死んだりしたら、私にとってはそれは「崩れた規約」となる。

私たちの日常あるいは生は、そういった「崩れ得る規約」の総体だと思える。私が私の生を感知している事。ここに私の家があり、あそこにあなたのバッグがある事。母が作った料理がテーブルにある事。母がいる事。などなど。。。

さてところで「崩れ得る規約」の総体だと思える私たちの日常あるいは生は「規約に基づくゲーム」で語れるのだろうか。私はこれはNOだと思う。私たちの日常あるいは生を語るにあたって、より妥当なのは「崩れ得る規約」を認め、そこに根差した語りであるように私は思う。もちろん「規約に基づくゲーム」も私たちが行う以上、おそらくは「規約に基づくゲームも、その根は、崩れ得る規約の総体のうちに呑み込まれている」ような姿になっているのだろうが。

私たちが必要とするのは「崩れ得ることを前提に、あるいは分からない事を前提に、私たちにとっての世界が形成されている」という語りであるように思う。そしてまた私は思うのだが、もし仮に「私たちの日常あるいは生は、崩れ得る規約の総体だ」という事が「一定程度に崩れ得る不確かさを孕みながらも、ある程度に妥当そうであるならば」ほんとうの意味で「厳密さや正確さなどの観点から、妥当な語りと言える」のは、崩れない規約に基づく語りではなく、崩れ得る規約を根とした語りではないのだろうか。

自然科学に比べ、ある意味では厳密性を欠いた社会科学や精神科学などの方が、私にとっては妥当性を示すものとも感じられるのは、例えばそのような意味からだ。あるいは小説、あるいは物語、あるいは日常の語り。そういった「(ある意味での)厳密な前提を棄却したうえでの、何がしかの真実に迫ろうとする語り」の方が、私としては、私たちの日常、生、暮らし、身体などが根差す、何がしかの真実に踏み込めるものであるように感じられる。真実なんて言い方はそれ程好きではないが。。。

あるいは私たちの語りはすべて仮定法的なのだ。「私は目の前のバッグを」という表出が「もし私に生があり、もし私の目の前に感知されるこの物体がバッグというのなら、私はそれを」というように。私たちはそのようにして、たとえば表出を手掛かりに、ゲームではないもの達へとアプローチしようとしているのだ。

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