2019年11月23日 - 80

感覚について

私たちの規約は、感覚と冗長性から形成される、おそらくは。例えば視えること、聞こえること、そういった事は感覚器が機能していれば一気に与えられる。その感覚の広がりが、その一瞬一瞬の世界となる。そしてまた、感覚の経時的な冗長性や、同時的な冗長性があることで、感覚は瞬間的な何かで終わせず、不確かさを含む「確からしさ」を伴った世界を形成する断片となる。

そこには規約がある。しかしそれは、その規約が冗長で強度がある程度に確からしい規約だ。例えば目の前に世界があること。何かが聞こえること。そうった広がりのなかに、何がしかを見出せる事。こういった事は、例えば私の目や耳が機能しなくなれば失われるだろう。

ところでまた、私たちは欠損した規約に惹かれるのかもしれない。その欠損は、私たちの求めるものを隠しているかもしれないからだ。冗長でない事、感覚できない事、そういった事もまた探求には意味を持つ。そして最終的には、何もかもが冗長ではなく感覚できない根に還るのだ、おそらくは。

私たちは、根と、現世というかこの存在様態のはざまで、何をしているのだろうか。


根の国から出たあとの私たちは、世界に対して開かれている。これは、存在は問いに対して開かれている、というような言い方でも構わない。私たちにとって、おそらくは、確かであるものなどどこにのなく、何もかもが確からしい(そしてその確からしさの程度は分からない)ものの織り重なりとして、あるいは欠損として顕れている。

これは、そこにどういった意味を見出すか、あるいは見出さないか、という話でもある。そもそも世界や問いは、世界や問いなのであって、意味などではないのだ。私たちの要請や関係性のうちに、それは意味として語られ、紐づけられ、当たり前であるように使われていくが。そこには意味はない。ただおそらく問いや示唆や奥行きや予感があるのだ。そしてそれらに対置される、私たちの欲望とがあるのだ。

そしてまたおそらく、根の国から出る前の私たち、土へと還ったあとの私たちは、問いを失い、ただたゆたっているのだ。生命のスープから死のスープまでのあいだに形となっている「存在」は、おそらく、根の国でも土の国でも崩れているのだ。とはいえ、存在となりつつある(そしてなり切れない)私たちは、常にどこかで根の国の住人なんだろうが(根の国の住人であるが故に存在になり切れないというか)。


私たちは、ある種の圧力のうえに、調整機構や、自覚機構や、想像/地図の布置のための抽象化領域がのったようなものなのかもしれない。あるいはこれについての別の言い方はこうだ。私たちは、自身のうちなる生命のスープ/発生源/発生の権能の(大枠的な意味での維持の)ために生きているのではないか、と。つまりそれを休ませるために寝て、維持するために食べて、増殖/継続させるために生殖をするのではないか、という話だ。三大欲求というものが個別にあるのではなく、すべては、生命のスープがどうであるか、というような話だ。とはいえ私たちはそれだけではない。私たちは、何らかのことに共感するなどして、生命のスープをただ増やそうというような事とは反対の事をしたりする。

ところでまた、おそらく、生体は遺伝子の乗り物ではないのだ。遺伝的作用は、生命のスープを増殖/継続するという、大枠的な維持の働きの一部を意味する。それは重要なのだろう。しかし今まさに生命のスープを握っているのは、今生きている生命であって、遺伝子ではないように私は思う。

メモ / 日々


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