2019年12月9日 - 80

ゲシュタルトの感知と読み取りについて

私たちには感覚がある。見たり聞いたり触れたりできるものだ。感覚器というのは強烈なもので、例えば目がひらけば、視覚情報がいちどきに押し寄せる。同様に、耳があけば、聴覚情報がいちどきに押し寄せるのだろう。

そのとき、情報はまとめていちどきにやってくる。目を開けば、無数の物品、色み、陰、奥行き、空隙、隠されて見えない領域、などがいちどきに見える様に。

おそらくここで、視覚をきわめて鮮明に精密にしても、ある意味では、見えるものはそれほど大きくは変わらない。視力が落ちてもそれほどは変わらない。例えばヒトなら、頭があり、髪の色があり、胴体や腕や足があり、服があり、それらの色みがあり。。。というところは、映像としてのそれがぼやけたり鮮明になったりしても、何も変わらないのだ。

その意味で、感覚器の分解能が増しても、読み取れる情報が増えるわけでは(ある意味では)ない。重要なのは、目を開いた時、耳があいた時に、いちどきに押し寄せてくる情報ゲシュタルトのボリュームから、そのボリュームの奥にどのように/どのようなロジックを見るのか、という事ではないかと思う。

例えば、意地悪な顔つき(というゲシュタルト/ボリューム)をしている人は、意地悪な性格(ロジック)をその奥行きに秘めているかもしれない。AにみえるものはAを秘めたものかもしれない。そのように、私たちは情報のボリュームから、ロジックを見出していこうとする。(この辺りの考えから、私はダックタイピングの話が好きだ。)

私がなにを言いたいのかというと、ここで「規約のようなもの」は一切発生していない、という事だ。はじめに規約が与えられるのではない。はじめに与えられるのは、情報のボリューム/ゲシュタルトであって、それ以外には何もない。そしてそこに、ロジック、つまりもしかしたら(常に暫定的な)規約になり得るかもしれないものを見出してみようとするのは私たちだ。私たちはそのようにして、情報のボリューム/ゲシュタルトのなかから、何かのロジックを見出そうとしていく。

それが世界への、私たちのアプローチの方法であり姿なのだと私は思う。そして感覚器が閉ざされれば、訪れる情報のボリューム/ゲシュタルトは、失われる。なんの約束も規約も守られずに、それは消滅する。私たちは規約を基底として生きているのではなく、感覚される情報ボリュームを基底とし、そこに何らかのロジックを見出し、そのロジックにまた、自らの欲望をぶつけたり失望したり探求したりあきらめたりして生きているのではないか、と私は思う。

生命の樹の論理も、宇宙の法則も、誰かの心も、文書で語られる歴史も、そのようにして、幻のように儚く消え去りえる、そのような情報ボリューム群のうちに見出されるものなのではないか(意地悪な表情の奥に意地悪な性格を見出したり、穏やかな表情の奥に穏やかな心根を見出すように)。そしてまたその儚いものが、私たち自身の生の手応えである事も、おそらくそうなのだ。

そしてまたさらに、私たちは情報ボリュームに出会うだけでなく、情報ボリュームのうちにそのようにして見出すものに出会い、何らかの手応え/感覚/感情を生起していくのだ。そのような「奥行きにあるもの」との出会いが、私たちの生/感情にとっての、ひとつの重要ごとなのだ。なぜならそこで見出されるモノの構成/仕組み/姿こそが、私たち自身の内奥の姿/状態/様態/ロジックの、ある意味での似姿であったり、関係する何かであったり、あるいは隔絶した何かなのだろうから。そういった遭遇こそが――少なくとも私の価値観からいけば――多くの雑多なことよりも、私たちの生や死において大きな価値を持つのだ。

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