2019年12月13日 - 80

死について

我々は死によって成り立っているのであって、少なくとも生だけによって成り立っているだけではない。例えばアポトーシス。もしも身体が全て密集した細胞の塊なら、私たちはこのような姿ではないだろう。細胞死があって分化があるから、私たちはこのような形なのだ。あるいはまた、無際限な生しかないのなら、そこは密集しかないだろう。そこには空隙も、空隙によって生じる機能もないだろう。そういう意味では、生と死は、私たちの存在のデザイナなのであって、その働きなしには、私たちという、このような姿はあり得ないのだろう。

私たちのうちにはある種のルールがある。これは好き、これは嫌い、などなどをある程度決定できるルールだ。それは刻み込まれたものであって、そして内部的なものであって、そしてまた、それは表出できないものであって、それ以外ではない。。。ある言語体系によって表出され得るルールは、しかし必ず、その言語体系への変換を経ている。しかしそれは部分的な変換であって、そのルールを取り巻く全てのルールの変換ではないのだ。世界は言語と別のところにある。私たちは話したり書いたりするなかで、それを、わずかながらに掬い取って、言語として表出してみようとするに過ぎない。私たち自体が、言語と別のところにあるのだ。そして私たちは、言語とは別のところで、繋がっている。その繋がりは、けして明るいだけのものではないのだろうが。。。

私たちは、言葉よりも広い世界に生きている。そこにはそこのルールがあるのだろうが、そこには言葉のルールはない。。。そのようなところから、言葉はやってくるのだ。そして言葉でルールは語られるが、それはあくまでも、言葉に変換されたルールであって、元からの姿のままのルールではない。言葉に変換されたルールで、元からの姿のルールを語り切ろうなどとは、おこがましいことだ。とはいえ、私たちは言語や、あるいは何らかの私たちの持ち物や手段で、それを語る、というよりも、語ろうとするしかできない(語らない、という態度を含めて)。そういう風にして語れる事、語れない事、語れずにもどかしい事、などなどの総体が、私たちの生きているルールからの、そのルールを生きているというところからの、私たちの、ある意味では拙い声なのだ。

我々の拙い声が、世界の全てを語れるなどとは、おこがましい夢だ。。。我々は、ある意味ではわかりやすいものだろう。しかし/とはいえ、その分かりやすさは、語りやすさとは同義ではない。。。私たちは静的な言葉ではなく、動的な生や死であって、それは、羊頭狗肉的な矛盾に陥らない様に語ろうとするならば、動的にしか語れないのだ。あるいはまた、語れないことを通じてしか、伝えられないのだ。それは言語体系が死んだ、あるいは未生の世界からの声だ。

我々は、豊かさのうちで死に果てたり生き果てたりしたいのであって、それは豊かさの極(きょく)に一定程度継続的にいる/経験する、という話しだ。そしてのこの種の話は、言葉では語り様がない部分をもつ。というのも、言語的な修飾がいくらできるようになっても、言語論理的な語りがいくらできるようになっても、そもそも言葉を生じさせる仕組みのうちに、言葉ではアプローチ出来ない仕組みが含まれる/広がるだろうからだ。しかしそれは言葉では語れないというよりも、言葉での語れなさや、拙さや、もどかしさなどを通じて、おぼろげに顕わにになるものであって、そもそも伝達とはそういうものなのだ。なぜなら伝達は、例えば、ココナツの実を以ってココナツの実を表すようなことはしないからだ。それは必ず疑似的ななにかを通して、ココナツの実を表そうとする試みだからだ。

メモ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です