2019年12月19日 - 80

言語と風景について

言語と風景は似ている。それはどちらも、それ自身は本当の事を言わない。けして嘘をいっている訳ではない。ただしかし、表出された姿と、それを表出した原理/仕組み/秘密というのは、また別なのだ。

私たちは表出されたものではなく、表出されたものを介した原理/仕組み/秘密に関わろうとするものだ。その原理そのものや、その原理の生成に立ち会う事が、一つの出会いとなる。

ここには2つの話がある。我々の世界には「秘密がある」という話。そして「それはどのような秘密か」という話の2つだ。後者は生命であったり、認識であったり、あるいは宇宙の話であったりするのだろう。。。前者はまた、言語と風景の秘密の話そのものでもあるのだろう。言語の先に垣間見えるもの、風景の先に垣間見えるもの、それら(の原理/仕組み/秘密)が追う事が出来るものである事。それが言語や風景のもつ、秘密であり、示唆であり、奥行きなのだろう。

ある意味では、ここには、手掛りがより多く転がっている。あるいは象徴がより多く転がっている。だが手掛り/象徴の背後には、原理/仕組み/秘密がある可能性があるのだ。我々はそれを常に推測し続けながら、互いに問答を行っている。。。


鮭のように死ぬものには、性と死は変わらないものであって、それは闇のうちから光へと来た自らが、小さく弱くなり、また闇のうちへと還るプロセスであり、そして生誕は、そこからまた新しい生命が光へと表出するプロセスであって、生命はそのように、闇と光とを行ったり来たりしながら何かをしているのだ。例えば新しさのキープを。あるいはただの生の発散を。

もちろん象徴だって物質だ。それは表出されたものだ。我々は、奥行きのある物質系/システムのうち、表出されているものに接触できるにすぎないのだ。もしシステムを解体したなら「システムの内部や深奥だったもの」は表出されるかもしれない。しかしそれは「システムの内部や深奥」ではなく「システムの内部であったものや、深奥であったもの」になっている。ある意味では、森の奥には、誰も到達できない。なぜなら奥にいったとき、その「奥」は表出されているものに「奥だったもの」になってしまっているからだ。そこでは観測条件やシステム条件が変わってしまっている。

結局我々がやっているのはダックタイピング的推測であって、それがアヒルのようなら、深奥にアヒルのような性質があるのだろう、という事になるのだ。しかし/そしてそれは、我々の唯一の、深奥へのアクセシビリティの道でもある。

これは関係性や輪郭を読み取る性質のものだ。そしてそれは言語を読み取るような振る舞いにほかならない。もちろん何もかもはアヒルの影であって「言語」ではない。言語すらアヒルの影であって「言語」というものではない。我々は、そこに表出しているものが何であれ、その影からアヒルを読み取ろうとしているのだ。だから(と私は思うが)世界を決めつける事など出来はしない。我々の認識がアヒルの影からアヒルを読み取ろうとするものであり、我々に与えられるものがつねに影であるならば、アヒルの姿は最終的には決めつけられないように私は思う。とはいえ探求は重要だ。。。我々にできるのは、無数の影から「おそらくこれがアヒルだろう」という確からしい姿を描き、議論する、そのような事であるようにも思う。

本能というものがあるなら、それは蓄積されたデータのゲシュタルトに反応する統計系だ。それがアヒルをアヒルと感じる理由なのだ。

メモ / 日々


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