2019年12月21日 - 80

何もかもアヒルだという話(ダックタイピング的には)

さて我々は、出会える現象を影だと捉える。それはイデアの影かもしれないが、しかし我々に分かるのは影だけであって、イデアではない。イデアはあるのかもしれないが、無いのかもしれない。それは単なる妄想かもしれない。しかし重要なのは、表出された事物があり、そこから我々が何らかの「イデア的なもの」を推測できる、という事だ。

アフォーダンスなども、おそらくこのような話のうちにある話なのだ。我々は表出されたもののうちに物語を読み取るのであって、その物語が我々の語る/認識できるあれやこれやだという事になる。逆に言えば、我々自身もまた物語を表出する事によって、その物語で伝えたい「アヒル/真意」を表出している、という事になるのだろう。

我々は、表出された諸現象と、その諸現象が影となって伝える、何がしかの構造的真意(といってもそれが本当に真かどうかなど分からず、推測するしかない真意)を体験しているし、その体験のうちに、そういった真意を見出そうとしているのだ。そしてその真意へと、何らかのメッセージを送ろうとする。それがコミュニケーションなのだ。。。その真意はあるかないか分からない。そのメッセージは伝わるか伝わらないか分からない。しかし投げかけてみる。そういったものなのだ。

そういったメッセージのうち、伝わるものも伝わらないものもある。しかし伝わったメッセージはそれとして、伝わらなかったメッセージは「伝わらなかったメッセージ」というメッセージとして、事物を形成していく。我々は、そのような世界に住まっている。例えば伝承的な音楽とはそういうものだ。表出されるものを通して、その土地固有の風土、文化、苦しさ、喜びなどを伝えてくれる。。。そして真意には定型的な姿はない。。。

そしてここにあるのは/ここに表出されている者は、秘密の象徴であると同時に、秘密そのものでもある。事物とは、あるいはメッセージとは、そういうものだ※1。しかしいずれにしろ、我々はそのようなメッセージの世界に、非確証的に住まっている。

※1:なぜなら、世界の多くのものは、それよりも一定程度大きな機構の断片である事が多いからだ。機構の断片は、その先に機構があることを知らせる。しかし機構の断片は同時に、機構の働きの発露そのものや、機構自体の発露そのものや、機構そのものでもあったりする。もちろんそこには機構はないかもしれない。その確証は、我々に与えられた示唆の範囲を出ないかもしれない。。。

日々


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