2019年12月24日 - 80

認識について、貪欲さについて

我々の認識は、ヒントが与えられる。アヒルのように鳴き、アヒルのように歩く何かが、そのように与えられる。もちろんそこには名前はない。それは「アヒル」とは「初めは」呼ばれていない。ある様態で鳴き、ある様態で歩く何かが、我々の認識にはヒントとして与えられる。我々は、それらをヒントに、それらを重ね合わせ、別の「何か」と結び付けながら、それらの布置を描き、奥行きを見て、それらの示唆するところからの重ね合わせをマッピングしていく。

それらには「見えないところ」があるし、それらの重ね合わせには奥行きがある。それらは、それらが形作られるように布置された、何らかの秘密に従って動作し、構成されている。少なくとも我々はその様に見る。それらは事物でありながら、何かの秘密の象徴でもある。我々は鳴いたり歩いたりする事物の重なりのうちに、それらの秘密を見る。秘密があるからこそ、それらはそれらとして表出され、我々に事物/秘密のヒントとして与えられている。

我々はタブラ・ラサではない。なぜなら我々は特定の事物のパターンに、特定の奥行きや、特定の秘密を見る様に初めから生成されているからだ。それは本能といってもいいのだが、もっといえば、それは蓄積されたデータのゲシュタルトに反応する継承された統計系なのだろう。

我々はしかし、蓄積された統計系以外には多くを知らない。事物は布置され、統計系に訴えかける。我々はそこから秘密の匂いをかぎ取り、縫うように、それを追っていく。それは秘密に通じる隘路である事もあるし、たんなる脇道である事もあるだろう。しかしそのようにして、我々は、直接的には知り得ない物へとアクセスしていく。

我々は確定的なこと、確証的なことを何一つ知らない。あるとしたら、それは統計系が強く示す話であって、しかしそれも確定的であったり確証的であるわけではない。我々は、開かれた世界で、ヒントのなかを進んでいく。そのようにして、我々は何かへとアクセスする。そこには確証はない。あるいはむしろ、確証的なものがないからこそ、開いた世界での、開いた探求は成立し、またそこでの秘密へのアクセスも成立するのではないか、と私には思える。確証性から構築された閉じた世界にあるのは「すでに知り得た秘密」でしかない。それはもはや秘密ではないし、そこには我々がはじめにそうであった「ある様態で鳴き、ある様態で歩く何か」へのアプローチが失われている。

それは、我々の根幹的な認識の姿を、ある意味においてごまかした話でしかない。そこには名称や規約によるある意味でのごまかしがある。しかし我々の認識には規約があるわけではない。何の重なりのうちに何の秘密を見出そうと、それは自由なのだ。。。

そして我々の認識には影がある。影は、我々の認識が発生してきた根の国だ。そこは我々にとっては盲点であり、しかし起点/基点である、そういった領域なのだ。それは(分かりやすい意味において)観測できない。しかしそこからの声を感じ、聞く事は出来る。。。そこで何かを感じる事も出来る。例えばそこと何かが共鳴すること。あるいはこう言おう。それは近感覚であり接触感覚であり、我々が影響を受ける事なしに感知できるものではないと。


多くの、おそらくほぼすべての生命は、飢えて何かを取り入れ、殖えようとしたり維持しようとしたりする(そのあわいのプロセスに破壊的なことがあろうとも)。そうして続こうとしていくのが生命なのだろうし、生命の貪欲さや豊かさや穏やかさなのだろう。

ところでまた、つねに満たされるとは限らないところに生命があり、その貪欲さと満たされなさゆえに、喜んだり苦しんだり生じたり滅びたりする生命のさまがある。これはこれとして、滑稽なものだ。その貪欲さと滑稽さが(あるいは貪欲さや滑稽さにまつわる無数の出来事や感情的な動きが)生命を彩っているともいえるものだ。

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