2019年12月31日 - 80

構造、機能、類推について

私たちは事物のうちに構造を見て取る。事物のうちには、(おそらく)永続的な事や、規定的な事はない、つまりずっと続く約束事などはないが、おそらく構造はある。我々はその構造、つまり脆く、壊れる可能性があり、永続的ではなく、一時的で、いまただ顕れているだけの構造を、事物のうちに見て取り、そこに機構や芯を見出す。

そのような構造をあらわしめる根底や基底となるもの、構造を生み出す機構、構造を生み出す内容物、構造を生み出す芯、などといったものだ。それらは永続的ではなく、規定的でもなく、ただ顕れている。それがこの世界が我々に提示する事物の様態であり姿であり、我々がそのうちに見出す何らかの/無数の奥行きの姿なのだ。

ある文様、ある様式、ある組み立てられ方、ある色彩、ある色彩群、こういったものは、多かれ少なかれ、なんらかの感情や認識を誘発し得る。それは(文化的、生得的、後天的なことはあるにせよ)我々がそこに、なんらかの構造を見出し、また、その構造に誘発されえる「感情の構造」「感覚の構造」を、我々が自身のうちに、格納しているからだ。それが展開される時、我々はなんらかの感情や感覚を感じる。

多くの場合は、何もかもが構造的なのだ。我々は構造(例えば図形の、色彩の、奥行きの、影の、光の、温度や湿度の、シーケンスの構造たち)に対して、美醜や、安らぎや不安や、永続性や一時性や、生命性や非生命性を感じる。そこには構造がある。我々自身も構造的だ。そのなかで、永続的でも規定的でもない形で、むしろ非永続的で滅びを示しながらの姿で、事物の出会いはありえる。互いの構造や、それをあらわしめている機構に惹かれあう/あるいは忌避しあう事物の出会い。あるいはコミュニケーションが、そこにはありえる。


我々は顕れ得た構造しか触れ得ない(少なくとも一次的には)。しかし顕れ得た構造が顕れ得たからには、そこには何らかの隠された構造がある場合がある。その構造のすべてであったり、その構造を生み出す構造自体を機能というのなら、我々は、顕れ得た構造から、機能を類推しながら、その機能に対して働きかけを図っている。これがコミュニケーションの本質の1つだ。

我々は、顕れ得た構造から、それにより類推される機能が奥行きにあることを期待し、それへの働きかけを試みる。それは成功する事も失敗する事もあるだろう。なにより、我々が想像した機能がそこにはあるかもしれないしないかもしれない。我々が想像し得なかった何かの機能がそこにはあるかもしれない。我々は、顕れ得た構造が示唆するすべてのうちから、何らかの確度が高かったり期待(それは不安や恐れも含めた期待だが)が高かったりするすべてをつねに可能性として持ちながら、そこへの働きかけを行うのだ。


我々は機能の複合体や総合体であって、いってみればそれ以外ではない。しかしおそらく構造的に、我々は、我々の機能の全てを(自覚的な意味で)「知り」得ない。しかし我々は、我々が「知り」得ない機能をもつ我々自身として、おそらく生滅し、そのはざまで行動したり存在したりする。そしてまた、そういった生滅や行動や存在のうちでコミュニケーションを交わす。。。

そこでは無数の機能が期待され、無数の機能が顕されたり隠されたり切り結ばれたりしながら、事物や示唆が取り交わされ、シーケンスが進行したり混ざったり崩壊したり生じたりしていく。。。

ある意味では、我々はそれを楽しむし、それに執着するし、それを理由に素晴らしい事や馬鹿げたことを行ったりする。それは、ある意味では、我々にとって「(生の)全て」なのだ。我々にとっての価値の全てといっても良いのかもしれない。それだけのものがそこにはある。。。しかし我々の姿は生だけではなく死や滅びでもあり、事物の価値は「生の全て」だけではない。。。そこに我々の葛藤も悲喜劇もある。

日々


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