2020年1月2日 - 80

情報と言われるものについて

情報と言われるものは、別のものとの結び付きや、別のものの代理(別のものの示唆)や、それそのものだ。例えば毛布、を形成する無数の特徴は、それが「毛布」と呼ばれる事が多いような布(と呼ばれる事が多い)の一定面積程度の広がりである事自体を示す。しかしそれと同時に、それは、それの「我々にとっての機能」であるような、温かさ、ある種の防衛(といざ防衛になった時の弱さ)などを示唆する。それは温かさや安心の「象徴」となり得る。なぜならそれが、それのもつ機能だからだ。あるものの姿は、あるもの自体の機能の象徴となり得る。

その意味では世界は象徴に満ちている。そして象徴同士の結びつきもそこにはまたある。単一では何も意味しなさそうな象徴すらある。それは例えば文字や記号だ。しかしそういったものすら、別のなにかとの結びつきのうちで、何かの象徴となり得る。。。この世界には顕れたそれ自体と、それ自体が示唆する機能がある。我々はそのなかに住まっている。。。ゲシュタルト(あるいは空間的な顕れ)やシーケンス(あるいは時間的な顕れ)の象徴群や機能群のなかで、我々は、なにかを欲したり忌避したりしながら生きて、そして死ぬ。我々自身もまた機能あるいは象徴として、その群のなかで何かの振る舞いを行っている。。。例えば生命の連続性(断続性)なども、その群のなかのある種の機能として振る舞っているとも言える。。。

ここ(この世界)には規定はない、ここにあるのは事物(あるいはゲシュタルトとシーケンス)であり、我々はそのゲシュタルトの海のなかを、ゲシュタルトを結び付け、奥行きを読もうとし、類推し、その過程をつねに暫定的な規約(のようなもの)にしながら、泳ごうとしているに過ぎない。我々は事物あるいは現象に対して、根源的には、規約を以っては当たれないのだ。なぜなら事物あるいは現象は、規約に先立つであろうからだ。すべての(意識的な)規約は、事物あるいは現象への出会いの場では、解体している。(意識的な)規約が構成される前の世界で我々が出会うものが、ある意味では、我々が真に/実際に出会えるものだと言ってもいい。少なくともそこには、ある種の名札はない。ある種の象徴はない。ある種の代理はない。そこには、代理や象徴や名札としての情報ではなく、機能がある。機能それ自体(あるいは名札のない機能それ自体)が。。。

私の死は、私自身にとって1つの究極だ。なぜならそこでは、私が完全に解体しているからだ。ところでならば、私の完全な構築というのは、例えばそのような生があるならば、それは私にとってまた1つの究極なのだろうか。そしてまた、私が完全に構築されている何かに組み込まれている状態というのは、「私」が失われて解体し、またその何かのうちで何かの一部として構築されているという意味で、2つの究極の論理積であり、それらが同時に適えられている姿なのだろうか。個人的には、解体と、不完全な構築とのはざまでウロウロしながら、何かを求めて程よく迷っているのが、多くの場合の私自身の姿であるようにも思うが。。。そういった、迷っている/曖昧な、存在の姿というのが、実は事物の多くの姿であるようにも思う。

昼の世界は代理に満ちている。あるものの代理の言葉、服、しぐさ、建物、などなど。。。ある意味では、夜の世界は、代理ではなくそれ自身があちこちにある世界だ。そこには代理はない。そこでは代理を要請する、昼間の社会的規範が眠っている。。。

毛布は暖かさを取るためにも、窒息させるためにも、目隠しのためにも、お化けの格好をするためにも使われる。それは多義的なものだ。多義的というのはつまり、毛布が、私たちに及ぼす機能の全てを網羅した多義性が、毛布によって象徴されているという事だ。そこには私たちと毛布との関係性から、毛布が私たちにおよぼす影響のすべてが埋め込まれている。つまりそこで重要なのは、ある意味では、毛布それ自身ではなく、毛布による私たちへの影響が何か、という事だ。それが毛布の機能だ。機能とはそういうものだ。それはものの姿とは限らない。もちろん「ものの姿がそうである」から、そのような機能が機能するのだが。その意味で、姿と機能とは結びついている。アヒルのように鳴いてアヒルのように歩くなら、それはアヒルなのだ。そして私たちは、往々にして何らかの機能を、あるいは機能が姿をとったものを求めている。それが構造あるいは機能としての私たちにおける何らかの(構造的な?)要請からの、希求※1だからだ。

※1:時には、構造が構造それ自身の解体を望む、というような希求すらありえるわけだ。

私たちはある意味では、機能を果たすために、残念ながら構造として成立しているだけで、もし構造として成立せずに、解体しながらにして機能を果たせるのなら、それで良いと感じるようなものかもしれないのだ。例えばこれは、生き果てるまでは死ねない、というような話だ。そこにはプロセスの重要性がある。つまり単に死ぬのではダメで、生き果て(て、自らとして成された何もかもを消尽し)たうえで死ぬのでなければダメだ、というような話だ。惜しさとは、そのような感情だ(そういう意味では、ある面では、我々はただ解体するのではなく、我々自身として与えられたものを消尽しきったうえで解体することを希求しているのかもしれない。それは別の面からすれば、また別の要請があるのかもしれないが)。

事物の姿のうちには、無限を、あるいは無際限さを示唆するような構造もあり得る(実際に無限や無際限さがそこにあり得るかは別にして)。我々はそういったものにも引き付けられる事がある。1つのアトラクタとは、ある豊潤さのなかへ解体していきたい、というものだ。虚無のなかへではなく。生命や死や生殖の豊潤さのなかへ。しかしそれだけでは、そこには審級が行われる外部装置がない。あるいは単なる承認や増殖しかない。そうであるなら、それはオーバードライブすれば歪んだ夢になるようなものだ。物事を正しく、というよりも、少なくとも外部装置の審級を進めるためには、豊潤さを出て、渇いたところへ赴かなければならない。ある意味では、豊かさがついえたときの渇きが審級なのだ。

世界にあるのは、ある意味では、感覚情報、来歴的あるいは生得的な統計的評価、後天的な判断材料、これだけだ。これらを結びつけ、これらから類推し、奥行きや、背後の機能を想像しながら、我々は、手探りで進み、何かの接触/コミュニケーションを、とり行おうとする。

もし我々が青色で、赤色に近づいて行く程度に紫色になるものであるなら、我々が赤色に触れた時、我々が青色である時に赤色を語るようには、我々は赤色を語れない。なぜならその時、我々は紫色になっているのだから。

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