2020年1月4日 - 80

ゲシュタルトについて

例えば、フライパンだの風呂だのという事物があるわけではない。そこにあるのは、フライパンだの風呂だのと「呼ばれる」ゲシュタルトであって、それ以外ではない。抽象的に言えば、呼称の世界は事物とは無関係なのであって、例えば風呂がbathと呼ばれようがなんだろうが、そこにそのような事物のゲシュタルトがある事は変わりない。

しかしかといって「まさに風呂なるもの」というゲシュタルトがあるわけではない。それはある特徴群を一定程度備えたゲシュタルトの塊というだけであって「本質的な風呂なるもの」があるわけではない。例えば桶と風呂の違いは本質的には無い。馬鹿げたほど極めて大きい桶と、馬鹿げたほど極めて小さい風呂には、おそらくなんの違いも無いか、その性質が逆転している。それらを曖昧に規定するものは、同様に曖昧な特徴群のリストに過ぎない(例えば、大量の液体を入れられるだけの強度とサイズがある、人体を入れる程度の容積がある、容易に液体に溶けだす物質ではない、主に水や湯をいれて用いる、再加温できる、蓋がある、洗い場とセットになっている、などなど)。もちろん呼称は、抽象的に言わないのならば、事物と完全に無関係ではないのだろうが。例えば動物などはその鳴き声から名付けられたのも多いのだろう。この辺りは、私たちが、無数のゲシュタルトを、自らの世界のうちで結び付けながら、それらに関与している、という話なのだろう。

あるいはまた、点だの線だのといったゲシュタルトがあるわけでもない。事物は、感覚情報として、おおむねいちどきに与えられる/訪れる。その事物を細分化したり、特徴を抽出したところに、点だの線だのが見えてくるのであって、点だの線だのから事物が構成されている訳ではない。事物から点だの線だのが抽出できるだけだ。その意味で「要素に分解」というのは、本質的には成立しない。それは抽象化した特徴/性質を抜き出しただけだ。そもそも事物は、特徴抽出はできても、分解できるものではない。事物はかならず、ひとまとまりのものとして与えられる。今の視覚風景を構成する要素なるものをバラバラにして別の場所に置くとしよう。そしてそのうちの1つの場所に行く。そこでは、先の視覚風景にあった一部を構成要素としたひとかたまりの風景がある。

私たちはゲシュタルトに出会い、ゲシュタルトに働きかけ、ゲシュタルトを変えたり変えなかったりしながら生命活動を成している。そのなかで私たちはゲシュタルトを評価する。それが私たちにとってどのようなものであるかと。そのためにゲシュタルトとして与えられる情報から、そのゲシュタルトを形成せしめている機能を、つまりゲシュタルトのゲシュタルトを読み取ろうとする。その機能に働きかけようとするし、それを変えたり変えなかったりしようとする。私たちの行動は、おおむねそういった活動のうちの悲喜劇や滑稽さとして語られ得るように思う。

いってみれば世界にイデア的な本質はなく、ゲシュタルトがあるばかりで、私たちはそれを読解しながら、その奥の機能やあれやこれやを類推しながら、その類推に囲まれて、喜んだり怯えたり怒ったり呆れたりしながら、日々活動している、という話だ。

そして私たちが、感覚の自覚を失えば世界は融けて崩れてゆく。感覚そのものを失えば、世界は消失する。その先、その奥行きにみていたり感じたりしていた機能の諸相、例えば人格や文化や価値や心性や生命性も潰えてゆく。世界はまるで幻か陽炎のようだ。それは今あるゲシュタルトと、これまでにあったゲシュタルトの記憶から、我々のまえで姿をとっているに過ぎないのだ。だがその陽炎や幻のなかに、無数の価値を見いだし、無数の欲望や、痛みだの喜びだの苦しみだのを感じるのも、また我々の姿だ。浅ましいものだ。そして浅ましさは、けして悪ではない(少なくとも総体的に言って、私は浅ましさがそれなりに好きだ)。

ところで我々はゲシュタルトだけでなく、シーケンスからも、奥行きを読み取る。もっと言えば、ゲシュタルトはシーケンシャルなのであって、シーケンシャルなゲシュタルトから、我々はその奥行きを読み取るのだ。例えば「時間」というのは、枠組みのようにあるものではなく、おそらくは、ゲシュタルト群のシーケンシャルな顕れから、我々がそのシーケンス性を読み取ったものに名をつけたものなのだ。我々はいつでも、シーケンシャルなゲシュタルト群が形成する物語群の内側で、その奥行きに臨んでいる。。。ところで物語についていえば、おそらく、ガラクタが物語群の意味として機能するのは、それらが、通常の「意味」から外れたところに布置しているからなのだ。形成された意味の系からこぼれ落ちて、その外部/根底のゲシュタルト群の様相に、道を開く契機となり得るからだ(そしてある場合において重要なのは、既存の意味の系がどうであるかではなく、ゲシュタルトから示唆される、契機や導線やせめぎあいだ)。

ところでこういった話は、いえば極めて広義のドラマツルギーだ。つまりこれは、どういった劇かは分からないが、文脈のようなものがそこここに見てる、という状況のような話だ。また話を飛ばせば、アフォーダンスとはドラマツルギー的文脈のコレクションのようなものではあっても、地形やデザインのコレクションではないのだ。

メモ / 日々


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