2020年1月6日 - 80

物語について、物語論

我々は多くの場合、物語のうちにいる。それは文字によって記述された物語ではなく、また「はじまり」だの「終わり」だののしるしがあるわけでもない。それはたとえでいえば、色と音と手触りで形成された物語だ。それらはシーケンシャルなゲシュタルトであって、別に文字ではない。しかしまた、文字もそこにはあるだろう。それは経験的に言えば多くの場合、形と音とを結び付けて形成される、慣習的身振りであり、その身振りの連続や断絶だ。そのような身振りの連続や断絶によって、その形と音は、別の色や音や手触りの象徴として機能する。あるいはまた、文脈を折り返したり(逆接など)、そのまま流れさせたり(順接など)するような象徴としても機能する。たとえば道の折れ曲がり方のように。

ところでそういった場からは、無数に物語が形成され得る。というのも、シーケンシャルなゲシュタルト群が象徴したり示唆したりし得る物語は、1つとは限らないからだ。どんなものや状況でも、ある意味では別の物語の入り口や分岐路になり得る。少なくとも、無数の物語に分岐し得る象徴/示唆/可能性のうちを、我々は生きているし、その可能性のせめぎあいのうちを生きているといってもいいように思う。

ところでまた「我々は多くの場合、物語のうちにいる」と書いたように、多くではない場合、我々は、物語が破断したり、生成したりするうちに居合わせたり、居てしまったり、そこに融け込んでしまったり、迷い込んでしまう事もあるだろう。それは私たちの生や認識のさまと関係があるやり方で、居てしまったり、融け込んでしまったり、迷い込んでしまったりするのかもしれない。少なくともそれは、単に文字や文脈の動作のみから見て取れる事ではないように思う。なぜなら、そういった物語を経験していくのは、このような生や認識の姿をもつ我々なのだから。

だから、おそらく、この物語にはパターンがあるはずなのだ。それは、我々の生や命の様相に根差した解釈や展開のパターンであるはずだ。そしてまた同様に、そのようなパターンではない物語もまたあるのだろう。。。例えば無機質的な物語。いずれにしろ、我々は、無数の物語に迷い込みながら生を編み続ける。。。


ところで、ある機能でありながら、別の機能の象徴でもある、ような事物がある。例えば生体反応に使われる化学物質のようなもの。例えば危険に際して出るようなホルモンは、身体の他の部分に対して、危険の象徴として伝達的に振る舞いながら、しかしそれ自身の機能により何らかの変化を身体の他の部分に引き起こす。例えば緊張や興奮。これを逆手にとると、危険でない場合でも、そのホルモンを出させるようなアクションをとれば、身体の他の部分は、危険時と同じように振る舞う、という話だ。これはおそらく、アレルギーなどと同じような話だ。正しい鍵だろうと間違った鍵だろうと、鍵が嵌るなら、鍵穴は回るのだ。


ところで我々の世界観は、物語という「枠組み内部のもの」というよりも、ある無彩限さ、生の世界の無彩限さに臨んだところから、汲み上げられ、組み上げられた、「枠組みを欠いた」あるいは「枠組みがあるかどうかすら分からない」ような語り群であるようにも思われるけれど。きっとおそらく、我々が臨んでいるのがある種の無彩限さであるからこそ、世界には、無数の解釈や可能性や矛盾やせめぎあいがあり得るのだ。


無数の、無際限な、シーケンシャルなゲシュタルト群のうちに、どういった「つながり」を見出すのも自由だ。そこには強度はあっても束縛はない。だからこそ、シーケンシャルなゲシュタルト群から、無際限な物語が紡がれるのだ。ある物体の輪郭や影に、幾何学的様相を見出すのも、ファンタジックな様相を見出すのも、無機質で乾いた様相を見出すのも、どれもあり得る物語なのだ。とはいえそれらの物語の筋道は「我々にとって一定程度妥当と感じられるような筋道」に、多くの場合は、一定程度縛られているのかもしれないが。

メモ / 日々


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