2020年1月8日 - 80

公理について、物語について

皆ほどよく、自らの公理群を信頼し、それによって構成された世界観を生きている。もう少しいえば、皆ほどよく自らの物語を信頼し、それによって構成された世界観を生きている。とはいっても、それら公理であったり物語群というのは、永続的ではない「かもしれない」ものであって、少なくとも「永続的だ」とか「永続的ではない」という風になにがしかに保証されているものではない。そうなると、我々は、事物から抽出された物語群の堅牢性よりも、事物のさまや姿の方に、より堅牢さを見出す事が多い。あるいは最終的には、おそらく必ずそうなる。我々の示すいかなる物語も、おそらくは必ず滅び、事物の動きのうちに散り散りになっていくのだ。我々が生きているのは事物の世界であると同時に、事物の解釈の世界であって、その境界面に常に我々はいる。。。

そして、事物の世界から見れば、事物の解釈の世界は無際限であるし、また、事物の解釈の世界から見れば、事物の世界は無限的であり、またその根に辿り着けるものではない。そして/しかしまた、事物の世界を我々の受け取るやり方でさえ、おそらくは、事物を直截的に受け取っている訳ではない。ココナツの事を考える人の頭の中に、ココナツがあるわけではない、というあの話と同様の事だ。そしてまた、事物の世界/感覚の世界も、永続的ではなく、塗り替えられてゆく。。。

我々は、事物を、感覚情報という、極めて限定的な形で感知し、しかし、それを基底的な情報世界として生きている。それと同時に、その事物の姿のゲシュタルトから、無数の(崩れ得る)物語を誘発し、その物語の世界も同時に生きている。そして同時にまた「物語が崩れ得る世界」も生きている。。。我々はこの2つあるいは3つの世界の境界面につねにいるのであって、そのどれか1つに常に属している、というわけではおそらくはないのだ。。。

そして我々は、無数の物語群、無数のゲシュタルト群、無数の物語の崩壊可能性群のうちから、自らが(おそらくは)最良と感じたものを生きようとし、同時にまた別の可能性を探り等し、そのように、無数の可能性を同時に生きようとしている。我々にとっての「現実」なるものは、ある意味では、そういった無数の可能性群から、今最も強く顕れているに過ぎない、事物と、事物の解釈と、事物の解釈の崩壊可能性が示し描く、可能性群/認識群の様相たちなのだろう。そこには少なくとも枠組みはない、そしてそこにはおそらく常に多数の可能性がある。我々はその可能性群の(選択の)うちでせめぎあい、動いている。

そしてまた、我々は(おそらくは)生得的に、また後天的(あるいは刷り込まれた文化観的に)、事物の姿や音や光や影のうちに、それの意味を読み取る。そこでは、感知/感覚的な情報と、「その感知/感覚的な情報が、(我々にとって)どのような機能/意味/働きを持つのか、という評価情報」の2種類の情報が必ず生起している。その評価が、いってみれば、我々の「崩れるかもしれない公理/物語」なのだ。とはいっても、感覚情報も移ろい変わってゆくので、これもまた我々にとっての崩れるかもしれない物語なのだろうが(ところで「変化する感覚情報」というのもまた、一種の評価ではある)。我々が生きている以上、我々の認識は、そういった評価にあふれている。生にはあらくいえば快と不快とがあり、少なくともそれのどちらか、あるいはどちらでもないか、への分類や評価は、生にとって重要だろうからだ。もちろん、意味に結晶しない情報もあるだろう。それらは断片として意味世界/評価の世界の中空を漂う。。。もしかしたらそういった意味を成さない断片群の方が、よほど多いのかもしれないが。とりあえず我々にとっては、事物はおそらく、何もかも、生に関連するかもしれない情報なのだ。我々は、生の立ち位置から、それらの意味や評価を抽出し続けようとする。我々はある意味では、感覚情報の世界/シーケンシャルなゲシュタルト群のうちに住まう、評価や解釈のエンジンなのだ。そしてそれは、我々が、評価や解釈のうちに閉ざされている、という事を意味しない。なぜならおそらく、我々の評価や解釈はよほど不完全だし、そもそも評価や解釈が不定の世界/(我々の勝手な)評価や解釈とは無関係に動き続ける世界/評価や解釈と無関係に顕れ遭遇するゲシュタルト群のうちに住まっているからこそ、我々は世界にいくつもの評価や解釈の可能性を読み取り、それらの鬩ぎ合いのうちの迷い道のなかを進んでいけるのであろうからだ。

あるいはこれら評価は、類推や推測や予測をその一部として持つ場合がある、といっても良いように思う。おそらく、そもそも世界が、我々の評価や解釈や予測と無関係に動作するからこそ、我々は類推や推測や予測を行おうとするのだろう。何から??様々な手掛かりから、すなわち示唆群から。そして、我々の類推が不全で、事物や我々の様相には様々な姿がありえるからこそ、我々は多くの場合、多くの可能性を類推し、そのせめぎあいのうちにいるのだろう。ところでまた、我々が科学なり魔術なりによって、完全な類推が可能になれば、我々の類推は終わるのだろうか??私はそうは思えない。例えば眼は自らのレンズを見ることは出来ず、手は自らの掌を掴めない。観測の動作点が、観測の支点を観測することは、おそらく原理的に出来ない(というこれも予測でしかないのだが)。眼は自らを見えず、脳は自らを感知出来ない。おそらく最終的には、我々は我々の感知の根を、つまり感知を成立させている領域を、まさに感知が動作しているその時に感知し得ない。少なくともこういったことから、私には、我々の観測が終わり、世界の可能性が収斂する事はないのではないかと思える。もちろんその可能性は、我々には無限ではない。我々が類推し観測し経験できる可能性はおそらく、我々の、生と死の様式に一定程度縛られているだろうからだ。とはいえ生は変化するもの、自らを適度に打ち捨て越えていくものだ。その意味で、我々の生と死の様式も変化するのだろうし、それによる可能性のあり方も変わっていくように思う。もちろんこんな事は誰にも分からない。少なくとも私には分からない。なぜなら私が、私の生と死の様式を一通りすべて経験し尽くしたわけなどではおよそないからだ。。。

また言うならば、我々の感覚もまた無彩限ではない。それは限定的で、今目にしたり耳にしたり触れたりしているものしか、見たり聞いたり触れたり出来ない。それ以外は、いってみればおそらくは、かつての感覚の残滓や残響であったり、推測による想像的な感覚なのだ。そういった限定的な感覚世界のうちで今見たり聞いたり触れたりしているものの「先」を読み取ろうとする動作が示唆の読み取り、動線の読み取り、類推、可能性の想像だったりするのではないかと思う。

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