生き物はおそらく、ある過剰だ。それはオーバーフローすること、溢れること、流れ出すこと、流出すること、その圧力、を内在的にもつ。それは現状を超えようとする。現状をオーバーフローしようとする。それはしかし弱く、障壁にあえばす […]
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ざっくりで、こういう感じじゃないかなと。。。 諸々あるが、ここで個人的に重要だと思うのが「評価」だ。これが、あるシステムが「自身がどういう状況に置かれているのか、それはシステムの存在や存続や運動にとってどのような力学をも […]
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我々は世界を体験する。しかし、Aの次にBが現れ、Bの次にCが現れる、という訳ではない。もし世界がルールが定まっているところなら、世界はそのルールが展開する様に現れるかもしれない。しかし世界のルールが定まっているかどうかと […]
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夢は我々の根源の一面だ。我々は認識する。例えばAをAだと。あるいは痛みを痛いと。 ところで物理的な世界/プレローマを想像すれば、Aも痛みもない。そこには例えば熱や光はあるだろう。しかし熱いとか冷たいとかはない。岩や金属が […]
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ここにあるのはすべて、意味情報の束、あるいは意味情報に収斂し損ねている情報の束だ。ある意味情報「A」かもしれない情報の束(Aを強く示唆する情報の重なり)は、実際「A」なのかもしれない。そこでは我々は「Aのように見えるもの […]
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■Sさんとの会話から抜粋 俺らの認識は「無際限かもしれないもの」に臨んでいるけれど、とりあえず得られた感覚情報を元に、あれやこれやを推測しながら「限界はこれくらいだろう」「区分け部分はこれくらいだろう」と見なして動作しよ […]
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そもそも認識は、無際限かもしれないもの、無限かもしれないものに臨んでいる。というのも感覚情報は、あくまでもただその時の上っ面の情報が訪れるだけであって、その先に、その奥に、どういったものが広がり、息づいているのかを、特に […]
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皆ほどよく、自らの公理群を信頼し、それによって構成された世界観を生きている。もう少しいえば、皆ほどよく自らの物語を信頼し、それによって構成された世界観を生きている。とはいっても、それら公理であったり物語群というのは、永続 […]
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我々は多くの場合、物語のうちにいる。それは文字によって記述された物語ではなく、また「はじまり」だの「終わり」だののしるしがあるわけでもない。それはたとえでいえば、色と音と手触りで形成された物語だ。それらはシーケンシャルな […]
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例えば、フライパンだの風呂だのという事物があるわけではない。そこにあるのは、フライパンだの風呂だのと「呼ばれる」ゲシュタルトであって、それ以外ではない。抽象的に言えば、呼称の世界は事物とは無関係なのであって、例えば風呂が […]
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